日本大学であの忌まわしい日大紛争から52年、また起こった上層部の不正。いつの間にか上層部は体育会系のバカの集まりになっていた。
オイラの大学時代は、大学生としての良い思い出はない。日大理工学部建築科の1年生だったか2年生だったか、例の日大紛争(闘争)に巻き込まれ、教室はロックアウト状態。授業料は払っていても、まともな授業もなく、暇ばかり。暇がもったいないし、カネもほしいで、アルバイトばかりに精を出していた。紛争の原因さえ、興味がなかった。たまに様子伺いで御茶ノ水にいくと、学生が沢山集まっていて、あとから名前が分かったが、秋田明大がリーダーで、演説をぶっていた。そもそも、目指した大学が、早稲田大学理工学部建築科、横浜国立大学だったが、みごと不合格で、そもそもやる気がなかった。熱海にいる父親も、どちらかというと、オイラの自主性に任せる方で、いちいち細かいことは聞かなかった。ただ東京にいるオイラの生活費、授業料などは、きちんとしてくれてはいたが。様々なアルバイトをした。デパートのお中元の整理のアルバイトしていたら、同朋があんた運転免許をもっているなら、市ヶ谷だったか目黒だったか、日本運転手組合というのがあって、各企業の運転手が欠員したとき派遣されるところがある。その日に日当を貰えるし、こんなところでやるより、もっと高い日当だぞと。そこですかさず、その門を叩き、そこの組合員?となり、様々な業種の運転手をやった。運送業、清掃車、ミキサー車、認知症の人の付添運転、夜逃げの運転、解体業の運転、エアコン取り付け業の運転と助手などなど、まだまだあった。翌年あたりにはこの日大紛争も静かになったが、今度は、70年安保闘争に移っていった。親戚の経営の関係で、高級クラブのマネージャー、バンドを背景に歌手、鎌倉由比ヶ浜で海の家の経営(1夏のみ)日大紛争が収まっても、大学は安定しなかった
この日大紛争とは、 日大紛争
1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学(日大)における大学紛争である。ただし「紛争」との呼称は批判的ニュアンスのものであり、学生運動の立場からは日大闘争と呼ぶ。
理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、1968年に莫大な使途不明金が明るみに出たことで、日大生の怒りが爆発したことに端を発する、大規模な大学紛争である。秋田明大を議長とする日大全共闘は、教職員組合や父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。・・・・・・・・・・・・・・・・
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