カテゴリー「ヨタ話・ザツ話」の383件の記事

2022年5月16日 (月)

沖縄返還から50年 沖永良部島の思い出 敗北感のあるロシアから過去世話になった国は逃げるのに忙しい。 

沖縄返還から5月15日に50年経ったと記念式典が行われた。1972年だね。オイラ1973年に結婚したから来年50年の金婚となる。返還数年前に、当時の仲間5人と大学の春休みに、スキューバーダイビングに行こうと計画したが、当時沖縄は返還前だったので、パスポートがいるとのことで、その手前の沖永良部島に行った。確か名古屋港から沖縄行きの船に乗って、途中で、艀(はしけ)で島の港に下船した。宿は港の傍で、そこを拠点に、昼2ダイブ、夜1ダイブをした。夜は水中ライトをつかって潜る。日帰りで隣の与論島にも行った。海ってこんなに美しいのかと驚いたものだった。OKガン(水中ゴム銃)で1m級の平アジ(ローニンアジ)や、あずきハタ、アオブダイ、バラクーダーなどなど、本土では見かけない獲物を追いかけた。ゴム銃のシャフトにライフルの玉を付け、サメを仕留めたこともあった(ポップガン)。当時ライフルの玉は結構自由に手に入った。夜はイセエビ狙い。水中ライトに寄ってくるところを岩の間に追い詰めて、銃で一発か、素手で捕まえた。サザエに似たその数倍大きい夜光貝や、パイプウニ、イモ貝など今も我が家の庭に飾ってある。またエラブウナギというのがいて、これは蒸して漢方薬になると。それらが人懐こく寄ってくる。それも数匹がだ。ウナギというが、これは正真正銘のウミヘビなのだ。さらに毒蛇なのだ。ただ口が小さいので、普通にしていれば噛まれることはない。陸にいるヤマカガシのような蛇なのだ。2回ぐらいシュモクザメの群れに囲まれたことがあったが、難なく逃れた。獲物は島の市場に持っていき、売りさばくことが出来た。旅費・経費は結構賄うことが出来た。この島の頂上付近に米軍のレーダー基地があり、タクシーで行くのだが、運転手が円をドルに換えてくれ、そこの食堂に行くと、分厚いステーキと本場のコカコーラを飲むことが出来た。最高だった。島には米軍兵もうろうろしていて、仲良くなったりした。

沖縄に初めて行ったのは、返還後数年経ってからだった。那覇の当時あったJALのホテルにカミさんと泊まった。名護にも行った。名護にいってウナギ料理の店で食べたうな重が大変美味しかったのを覚えている。・・・・・

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2022年4月 8日 (金)

ロシアのプーチンから学ぶ政治体制の歴史の教訓 専制主義と権威主義

1990年代の話だが。
1991年12月25日にソビエット連邦が崩壊した。ちょうど日本は1970・80年代に土地神話にもとずく不動産バブルが膨らんで絶好調になっていった。1987年ごろは、東京都の土地の総額で、米国の土地全部が買えるなどと、TVや雑誌で専門家といわれる面々が言っていた。土地を担保に、例えば、今ではほとんど値が付かないほどの深山・里山の土地に30億円・40億円の根抵当権が付けられた時代だった。だから、世界の銀行ランキングでも、ベスト20に多くの日本の銀行が名を連ねていた。株も上がり続け、1989年(平成元年)12月25日に日経平均3万8915円の史上最高値を記録した。それを頂点に株バブル崩壊し、日々下がっていった。あの頃の日本は、まさに異常だった。

やがて、1991年に米国の次に大国と言われていたソビエット連邦が崩壊した。それまでのソ連は景気が落ち込み、ゴロバチョフが初めて大統領となり、ペレストロイカの掛け声で、資本主義を目指し始めた、その矢先だった。ソ連共産主義の崩壊だった。そのころ、日本でひと際注目を集めたのが、奇才・天才と云われた小室直樹だった。・・・・・・・
小室直樹WIKI

 

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2022年1月 3日 (月)

今年のお正月。 windows10をインストールした。 youtubeなど不愉快な侵入広告を排除することができた。

皆さま、新年おめでとうございます。また今年1年、このブログにおいでください。

今年のお正月

昨年もコロナコロナで明け暮れた1年でした。今年からはそろそろ、ウィズコロナで、インフルエンザと同じような世界が広がるでしょう。なぜコロナが怖いのか?武漢の時からこれに感染すると、悪化する率が大変高く、さらに重症化しやすく、死者率も従来の普通インフルエンザより圧倒的に高かったからです。毎年流行するインフルエンザと同程度となれば、元の世界に戻るわけで、平常な世界です。

昨日2日、娘の二家族が東京へ帰宅しました。昨年は三女家族はシンガポールに赴任だったので、正月は来れず、長女家族は元旦に日帰りで顔を出しました。次女家族は同じ地元住まいなので、その息子がちょいちょい顔を出します。もちろんお年玉の回収もありますから。コロナ恐怖の真只中の昨年の正月は非常に寂しい正月でしたが、今年はなんとかサマになった正月となりました。ただ、それぞれ旦那が大手サラリーマンなので、コロナには十分注意しているようで、家の中でも口数を少し控えているようで、寡黙な賑わいとなりました。まぁ、元気な姿と顔を見せてくれるだけでも十分です。

また元旦には、三女の家族は息子がまだ2歳半、外で遊ばせるには少し寒いし、多少熱っぽい。家の中で遊ばせて、その旦那と一緒にウチの柑橘園でポンカンとはるみの収穫をしました。まだ若木なので約2時間で終了し、モノラックの操縦の仕方も教えました。ついでにチェーンソーの使い方もと思いましたが、時間が足りず次回にしました。

とうとう、windows10にしました。恥ずかしく遅いですが

「PCが命」のオイラですが、恥ずかしい話しですが、windows7のままで、windows10へのアップグレードをしていませんでした。2016年にwindows vistaから7に変える時、余計なことしをしてしまいトラブルとなり、メール履歴を紛失したり、ドキュメントの半数を失ったり、画像の一部を失ったりで、そのトラウマが残っていたのです。またwindows10は、サイトで調べるとデザインが変わったり、あまり評判がよくなかった。・・・・

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2021年12月26日 (日)

クリスマスの思い出。コロナについて日本は不思議な国なのか?

今年のクリスマスは

あっという間に、クリスマスも過ぎました。コロナ禍で例年のクリスマスの華やかさがなかったので、クリスマスソングも頭に浮かびませんでした。それにしても、欧米を中心とした国々(キリスト教、命!)は、このコロナ禍でもクリスマスだけは、アイデンティティ的に1年の最大なイベントなのでしょう。キリスト教徒が少ない日本人は、そこまで同調はできません。理解ができないのです。ただ戦後GHQの指導で、日本はこの行事を積極的に取り入れた歴史があり、こんにちに至っています。

幼い時の記憶では、20日ごろ親の指導なのだろう、山に行ってクリスマスツリーに良さそうな苗木を切り取って、ウチに持ってきて、様々な飾りをつけ、本格的に仕上げました。そうだ!雪らしきものを!と思って救急箱から脱脂綿を取り出して枝葉に載せ、仏壇からロウソクを引っ張り出して、下に備え、予行演習にと、マッチで火をつけたら、その火が一瞬に綿に燃え移り、危なく火事にするところでした。以後火気厳禁でした。これ小学低学年のころでしたが。ウチは道路側外壁に当時5つぐらいあった熱海の中心街にあった映画館の上映中ポスターを貼らせることで、お礼として月に数枚の無料招待券もらっていて、よく家族で観に行きました。ですから1950年代、1960年代の特に洋画は沢山観ることができました。洋画専門の国際劇場、大映、東宝、東映、松竹、名画座など、各映画会社がしのぎを削っていた時代でした。洋画を観るのが多かったので、このクリスマスに因んだ映画も多く、それで育ったようなものでした。
幼少のころは、本当にサンタクロースがプレゼントをもってきてくれると信じていました。25日の朝起きると、枕元にオモチャが包装紙に包まれて置いてありました。サンタクロースといえば、今は赤地の服に白い縁取りが定番になってしまいましたが、これは大昔、コカ・コーラのCM宣伝に使われた衣装がそのまま定番になった、サンタクロースなんていないよ!とイタリアの司教が述べたことが問題になったそうです。
「サンタはいない」発言で謝罪 イタリアの教会、親が抗議 あまりにも商業化されたクリスマスに禁断の批判をしたそうです。確かに事実なのですが。キリスト教徒としては、夢を壊されたくないのでしょう。

キリスト教世界では、このクリスマスをプラットフォームとした産業は世界中で毎年莫大な金額を稼ぎ出しているわけで、ほら話であっても、永遠に続いて行くのでしょう。神道の初詣に絡む産業なんて小さいものです。そんな中、欧米では依然としてコロナの新規感染者は減るどころか、ますます増えてきています。・・・・・・・・・

 

 

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2021年12月 8日 (水)

日本大学であの忌まわしい日大紛争から52年、また起こった上層部の不正。いつの間にか上層部は体育会系のバカの集まりになっていた。

オイラの大学時代は、大学生としての良い思い出はない。日大理工学部建築科の1年生だったか2年生だったか、例の日大紛争(闘争)に巻き込まれ、教室はロックアウト状態。授業料は払っていても、まともな授業もなく、暇ばかり。暇がもったいないし、カネもほしいで、アルバイトばかりに精を出していた。紛争の原因さえ、興味がなかった。たまに様子伺いで御茶ノ水にいくと、学生が沢山集まっていて、あとから名前が分かったが、秋田明大がリーダーで、演説をぶっていた。そもそも、目指した大学が、早稲田大学理工学部建築科、横浜国立大学だったが、みごと不合格で、そもそもやる気がなかった。熱海にいる父親も、どちらかというと、オイラの自主性に任せる方で、いちいち細かいことは聞かなかった。ただ東京にいるオイラの生活費、授業料などは、きちんとしてくれてはいたが。様々なアルバイトをした。デパートのお中元の整理のアルバイトしていたら、同朋があんた運転免許をもっているなら、市ヶ谷だったか目黒だったか、日本運転手組合というのがあって、各企業の運転手が欠員したとき派遣されるところがある。その日に日当を貰えるし、こんなところでやるより、もっと高い日当だぞと。そこですかさず、その門を叩き、そこの組合員?となり、様々な業種の運転手をやった。運送業、清掃車、ミキサー車、認知症の人の付添運転、夜逃げの運転、解体業の運転、エアコン取り付け業の運転と助手などなど、まだまだあった。翌年あたりにはこの日大紛争も静かになったが、今度は、70年安保闘争に移っていった。親戚の経営の関係で、高級クラブのマネージャー、バンドを背景に歌手、鎌倉由比ヶ浜で海の家の経営(1夏のみ)日大紛争が収まっても、大学は安定しなかった

この日大紛争とは、      日大紛争

1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学(日大)における大学紛争である。ただし「紛争」との呼称は批判的ニュアンスのものであり、学生運動の立場からは日大闘争と呼ぶ。

理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、1968年に莫大な使途不明金が明るみに出たことで、日大生の怒りが爆発したことに端を発する、大規模な大学紛争である。秋田明大を議長とする日大全共闘は、教職員組合や父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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2021年11月29日 (月)

なぜ時の流れが早くなる  facetimeについて また新変異種株が出現した

歳を取ると、時の流れが早く感じるようになる。

朝食時、カミさんと話したのだが、もう12月になるのか、本当に月日の流れるのが、早く感じるようになったと。これ毎度の会話。ある解説によると、歳を取るとともに、脳の中の海馬が微々とではあるが、弱くなっていく。海馬は記憶の集め、選別や強化をつかさどるそうで、毎日の記憶の整理が行き届かなくなるとこのように時の流れを早く感じるようになると。イメージでいうと、海馬に最近の記憶がいっぱい詰まっていれば、それだけ思い出が沢山あり、時の流れをそれなりに感じるが、断片的にしか残っていないと(スカスカだと)、大変早く感じるようになると。今日は月曜日だが、あっと言う間に土曜日になってしまうと感じるのはその理由だと。もちろん、若くても、1日家で何もしないでぼーっと過ごしている人は、海馬が健在でも(若くても)同じように感じると。

iphoneのfacetimeについて

以前記事にしたが、今年5月に、それまでPC専用でダウンロードしていたLINEが、配信変更となった、まずスマホのLINEがプラットフォームとなり、そこから、PC用LINE、タブレット用LINEが同期になるようになり、当然その5月にオイラのPC用LINEは打ち切りとなり、それまでの友達とのトーク履歴も全てなくなってしまった。それまでは、恥ずかしながら携帯はガラケーでした。電話とSMSだけで、インターネットはPCだけで十分という生活でしたから。そこで急遽ドコモネットラインで、iphoneを購入し、手続きをして、使いこなしてきました。ただ使い方の無限のような感じで、未だに初心者の域を出ません。

先日も柑橘園で作業していたら、いつもと違う着信音がズボンの中で鳴り、取り出して見ると町田のユタ坊。20分ぐらい喋ったが、音声はいつもと同じだが、画面がなんだか違う。ぼやーとしている画面。何なんだろうと思いながら電話を切った。自宅に帰ってゆっくりスマホを起動すると、最初の画面のアイコンの左上のfacetimeに①がついていて開けてみる。すると町田のユタ坊の表示がある。彼は、facetimeで電話してきた。彼に電話でそのことを告げると、彼は意識的にやった記憶がないと。・・・・・・・

 

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2021年10月12日 (火)

高校時代の大先輩が逝去した。

柳家小三治師匠が逝去された。オイラが都立青山高校時代の大先輩だった。

柳家小三治さん 夕食とり入浴後に自室で急死…妻・和世さん発見「本人も全く死ぬつもりはなかったと思います」

柳家 小三治(やなぎや・こさんじ)1939年12月17日、東京都新宿区生まれ。都立青山高校卒業後、59年3月に5代目・柳家小さんさんに入門。前座名「小たけ」で初高座。63年に二ツ目に昇進し「さん治」と改名。69年に17人抜きで真打ち昇進。10代目・柳家小三治を襲名。10年6月から14年6月まで落語協会会長。2005年に紫綬褒章、14年に旭日小綬章受章、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。

前記事にあるように、オイラは、高校時代から新宿十二社(じゅうにそう)にあった親父の木賃アパート(光和荘)で管理人兼で一人暮らしだった。ここから、徒歩で新宿駅⇒信濃町駅⇒神宮外苑を通って通学した。最初はラグビー部に入ったが、放課後の練習でクタクタになって、夕食を摂るのも辛かった。それで部を変え落語研究会に入った。中学時代には中落合の祖父母の家にいて、そこには静岡県吉原からの下宿人も同居で、彼は早大生だった。早稲田祭は毎年秋にあるが、そこに連れて行ってもらった。中学一年生だったが、様々な催しに初めての感動をした。これが病みつきになり、今度は一人で通った。学生食堂でのカレーライス、焼きリンゴなど、安くて大変美味しかった。その中で、落語研究会の催しが気に入り、なんて落語って面白いんだろうと感じた。それ以外にも軽音楽サークルでは、ステレオで当時流行った米国のポピュラー曲を流していて、これもお気に入りだった。・・・・・・・・・

 

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2021年10月 4日 (月)

初めて千葉県市川に行って来ました。ついでにオイラの古巣の新宿に!15年ぶりに再度の記憶の上書きをしてきました。

市川に初めて行きました。

昨日3日の日曜日は、市川市に初めて行きました。三女一家がシンガポールから帰国後、市川の賃貸マンションにいるのだが、カミさんとのやり取りで、日曜日に夫婦同時に二回目ワクチンを打つことになり、副反応が心配だと。まして二歳の男の子がいる。個人差はあるが、発熱、吐き気、倦怠感にもし襲われてもいいように、カミさんがそのサポートをすることになった。保育園の送り迎えもある。ついでにオイラも市川は初めてだし、娘の住むマンションを見てみたい、さらにシンガポールから連れてきた猫も見てみたいということで、関東は二年ぶりの夫婦外出だった。孫の誕生の時は、カミさんはそのサポート役で、一ヶ月半シンガポールに滞在、結構楽しんで来た。その間オイラは、自炊生活だった。まぁ、これも、もしも先々カミさんの方が先に逝った場合の予行練習とした。

接種を終えた夫婦と孫とは、昼前に市川駅改札口で待ち合わせ、その後ステーションビル内の食堂通りで、寿司の昼食。孫は納豆巻が大好きで、たいらげた。その後タクシーで、マンションへ。オイラが大学時代はこの辺一帯は工業地帯で殺伐としていたらしい。当時あった運転手組合に登録し、各企業で運転手が欠席して、その臨時の運転手を手配する組織だった。日当はその日に貰えるという良いアルバイトだった。当時は日大紛争で教室はロックアウトで、通学は出来なかった時代だった。運転の日当は1万円前後で良いアルバイトだった。様々な職種の運転手をしたが、多分この市川周辺にも運転手として1度か2度は行ったと思う。一部風景にその匂いが残っていた。

娘夫婦のマンションは、江戸川べりで、江戸川に沿って遊歩道やサイクルロードがあり、大変良い環境だった。2LDKに幼児と猫と一緒の生活だ。ただ買い物は駅のビルとなり、徒歩15分前後。タクシーで600円という距離だった。・・・・・・

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2021年4月11日 (日)

スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」の映画の話し

映画の話し

数日前に、偶然あの超有名な映画監督スタンリー・キューブリックについての2時間余のドキュメンタリーをyoutubeで見つけ、見入ってしまった。彼の名前を意識したのは、ネットが発達したお陰なのだが、15年ぐらい前になる。彼の作品「2001年宇宙の旅」を、22歳ごろ初めてテアトル東京(既閉館)で観た時、今までに無かった映画と感じ感動した。彼の映画に共通していることは、これまでの映画の常識破り、観客に疑問・疑問を感じさせるストーリー進行だ。この映画、どうしても謎解きがしたく、4回ぐらい劇場に通った。さらにTVビデオなどでも。

そこで暇に飽かせて、このスタンリー・キューブリックの作品をネットを通して調べた。スタンリー・キューブリック(wiki)

オイラが過去観て、今も覚えている作品は、『博士の異常な愛情』・『2001年宇宙の旅』・『時計じかけのオレンジ』・『バリー・リンドン』・『シャイニング』などがある。全て異色な作品ばかりだ。この中で、今日取り上げたいのは、『博士の異常な愛情』。・・・・・・・・・・・・・

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2021年4月 8日 (木)

コロナ禍で期限1ヶ月遅れの所得税確定申告を完了した。オイラに関係の二人の脚本家の死

所得税確定申告を完了しました。

コロナ禍で、1ヶ月提出期限が伸びた今年の確定申告、昨日午前に税務署に行き、提出し納税もしてきました。毎年「excel確定申告」をダウンロードして、シェアーソフトなので、ライセンスキーをネット購入して、前年度のデーターの中で毎年変わらない項目は転移させ、項目の一部はコピーで、本年度分のデーターを入力です。不動産所得用、農業所得用はこれがあるので、少なくても1日分は助かります。農業所得は当然赤字です。特に昨年は防除用のエンジンをとうとう買い替えました。ヤフオクで中古品ですが、元気に稼働します。また防獣用の様々な用具も購入し、例年よりさらに赤字が膨らみました。それにより、所得計算での控除額が増へ、全体として節税の働きをします。ソフトの入力、プリントアウト編集・提出などで、今年も通算4日程掛かりました。次は法人確定申告が待っていますが、こちらはより簡単です。毎年赤字ですから。eタックスでネットアプリで作成と送信が出来るのですが、前年度のデーターをどの程度利用できるのか解らないことと、毎年すでに慣れているので、新しいやり方に慣れるのに面倒くさい。また、税務署に出向くというアナログを大事したいという思いもあります。税務署内の雰囲気を体で感じることも良いものです。

有名脚本家二人の死

橋田壽賀子が本年4月4日午前9時ごろ、自宅で逝去した、95歳で。合掌!

彼女は熱海市民ならほとんど馴染みがある。オイラと彼女は会ったことはないが、思い出がある。1986年ごろだったか、ウチの地区の隣に上多賀という地区があり、そこに山の上半分を宅地造成された熱海自然郷という別荘地がある。そこに建築開始の建物があり、市内の建築業者で懇意にしている現場監督が、「先生は、確か北米のツーバイフォー工法に詳しいですよね。知り合いの業者が自然郷で現場をやっていて、それがその工法なのだが、現場を案内しますので、アドバイスしてください」と。それが後から聞いたら、橋田壽賀子の自宅だった。・・・・・・・

 

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