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2021年10月 4日 (月)

初めて千葉県市川に行って来ました。ついでにオイラの古巣の新宿に!15年ぶりに再度の記憶の上書きをしてきました。

市川に初めて行きました。

昨日3日の日曜日は、市川市に初めて行きました。三女一家がシンガポールから帰国後、市川の賃貸マンションにいるのだが、カミさんとのやり取りで、日曜日に夫婦同時に二回目ワクチンを打つことになり、副反応が心配だと。まして二歳の男の子がいる。個人差はあるが、発熱、吐き気、倦怠感にもし襲われてもいいように、カミさんがそのサポートをすることになった。保育園の送り迎えもある。ついでにオイラも市川は初めてだし、娘の住むマンションを見てみたい、さらにシンガポールから連れてきた猫も見てみたいということで、関東は二年ぶりの夫婦外出だった。孫の誕生の時は、カミさんはそのサポート役で、一ヶ月半シンガポールに滞在、結構楽しんで来た。その間オイラは、自炊生活だった。まぁ、これも、もしも先々カミさんの方が先に逝った場合の予行練習とした。

接種を終えた夫婦と孫とは、昼前に市川駅改札口で待ち合わせ、その後ステーションビル内の食堂通りで、寿司の昼食。孫は納豆巻が大好きで、たいらげた。その後タクシーで、マンションへ。オイラが大学時代はこの辺一帯は工業地帯で殺伐としていたらしい。当時あった運転手組合に登録し、各企業で運転手が欠席して、その臨時の運転手を手配する組織だった。日当はその日に貰えるという良いアルバイトだった。当時は日大紛争で教室はロックアウトで、通学は出来なかった時代だった。運転の日当は1万円前後で良いアルバイトだった。様々な職種の運転手をしたが、多分この市川周辺にも運転手として1度か2度は行ったと思う。一部風景にその匂いが残っていた。

娘夫婦のマンションは、江戸川べりで、江戸川に沿って遊歩道やサイクルロードがあり、大変良い環境だった。2LDKに幼児と猫と一緒の生活だ。ただ買い物は駅のビルとなり、徒歩15分前後。タクシーで600円という距離だった。・・・・・・

 孫同様に楽しみにしていたのは、昔我が家で18年一緒にいたアビシニオン猫と同系統の雑種猫で、初対面なので警戒してか、目が大きくてビックリしたような目で、寄ってこない。まぁ仕方がない。メスなのだが、どうも恥ずかしがり屋らしい。

オイラのふるさとの新宿に15年ぶりの記憶の上書きに行った。

家に上がって1時間ぐらい雑談で、オイラは御暇し、総武線で新宿に行った。若い頃まさに新宿は我が街だった。中学時代は新宿区中落合の母方の祖父母が、数人の下宿屋も兼ねていて、オイラはそこに預けられた。早大・日大の下宿大学生と一緒の生活だった。それ以外にも、明大の叔父、早大出の設計事務所勤務の叔父など。夜は大変賑やかだった。高校になってここの場所が道路拡張で立ち退きになり、皆バラバラになった。たまたま、オイラの父親が、新宿の十二社(じゅにそう)に木賃アパートをもっていたので、そこに管理人として移転した。二十歳前後に新宿三丁目に親類が高級クラブを経営していて、やはり大学紛争で通学出来ず、暇を持て余していたのでそこで手伝ったこともあった。全学連が新宿駅を襲ったのもその頃だった。バーテンをやったりマネージャーをやったり、さらに新宿に、別にサパークラブを出して、オイラはマネージャー兼バンドに合わせて、スタンダードジャズ歌手もした。期間は8ヶ月ぐらいだったが。だから新宿駅からこの当たりまでの動線と風景は、記憶に焼き付いている。オイラの庭だった。

今回約15年ぶりに、この日、新宿駅から新宿三丁目まで歩いて、大昔の記憶を上書きしてきた。まず新宿駅東口広場で、大きな猫が出迎えてくれました。

Neko

噂には聞いていたが、これには驚いた。これが動くんだよ。新しい新名所だね。多くの人がスマホで撮っていた。どのような仕組みなのか分からない。この後中村屋・伊勢丹は昔通りだったが、伊勢丹真向かいにあった三越はすでになく、モダン・ジャズをよく聴いた店もない。「どん底」・「末広亭」・「エルザ」はまだあった。街は結構賑わっていて、夕方だったが、多くの人が各店の前に置いてある外テーブルで一杯やっていた。10月1日から緊急事態宣言が解除されたこともあるのだろう。日曜日の夕方とすると、コロナ前とほとんど変わらない賑わいだった。ところで、この新宿伊勢丹の外観(ファサード)は改めて見ると、縦筋デザインの大変美しい建物だ。誰が設計したのだろう?沿革はどうなのか?と調べてみた。清水組とは今の清水建設だ。昔オイラの設計で施工をしてもらったことがある。

東京新宿・伊勢丹デパート(昭和モダン建築探訪) 

その後、歌舞伎町を徘徊した。相変わらず呼び込みが声を掛ける。ほとんど決まって「DVD」と言う。どういう意味なのか。無視すると、さらに新宿警察の広報が、「呼び込みに乗らないでください、皆、詐欺です」と何度も何度も。昔あったコマ劇場も更に大きく改築され、ミラノ座は撤去され、そこに超高層建物が建築中だった。断片的ではあったが、中学から30歳までこの新宿三丁目・歌舞伎町は、まさにオイラの「ふるさと」だった。

その後、徒歩で新宿十二社に行った。高校生の時から30歳まで14年間住んでいた場所だ。当時の父親の木賃アパートは借地だったので、地主に返され、その地主の住宅に変わっていた。道路挟んで真向かいは、駒ヶ嶺病院が今も健在だった。よく通ったとんかつ定食の「品川」。次に近くに出した「志奈川」はまだあった。この主人は建築にも精通していて、自分で店造りをしていた。よく通った銭湯は、もうとっくにない。すっかり町内は変わっていて、面影があるのはごく一部だった。夕食の時間になったので、近くでよく通った台湾料理の店「山珍居」がまだあったのでそこで夕食をとった。「45年ぐらい前によく来たんですよ」と店を切り盛りしていたお婆さんに言った。当時からいた息子さんに、台湾から嫁いで43年になりますと。お互い生年を告げあった。調理場の近くに行って、調理の息子さんの顔を見た。当時は先代(父親)の息子として修行中だった。お互い記憶は薄れていて、すでにお互い白髪で、ピンと来るものはなかった。台湾ビール小瓶2本と台湾ピータン・腸詰め・シジミの佃煮、そして焼きビーフンで仕上げた。懐かしい味だった。ここからまた歩いて中央公園を眺めながら、そして長女が2歳ころ散歩で寄った新宿住友ビルの館内にあった団子屋と猫の石像。今は周囲の外構広場を下屋にして裾野の広い建物に変わった。もしや、あの猫の石像(玉ちゃん)は撤去か?と中のロビーに入ったら、壁ぎわにその猫の石像が移設されていた。そのまま駅に行き、新幹線で熱海に帰りました。スマホの歩行数を調べたら、2万5千歩ほど歩いたことになっていた。

太田道灌の命を救ったネコ

恒例の武漢コロナ、各国の成績表です。

COVID-19 CORONAVIRUS PANDEMIC  日替わりトップページからの引用です。

10月3日の成績の上位一部です。感染者累計から回復者累計を引いた、現在も感染者の累計 acutive casesをクリックして多い順に上から並べ替えをしたものをスクリーンショットしました。

クリックで拡大

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 因みに日本は上から64位、active casesは22,724人です。野党のいつまでも懲りない面々よ!未だに日本政府はコロナ対策に失敗したと言い募るのか。国際比較でその根拠を言ってこらん。このバカ者どもよ!日本の成績はずっと国際的には感染者はさざ波だったのよ!

 

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