不動産登記簿に残された残滓(ざんし)・残渣(ざんさ)。オイラの爺様と時空を超えて触れ合ってきました。
今日は久しぶりに雨の一日となりました。これから夕方・夜、そして明日に掛けて雨はさらに強くなると。今日昼のテレビBSで、オイラの嫌いな二人が、あの2・26事件について特集をしていました。そう昭和11年(1936年)2月26日に起こった軍事クーデター未遂事件の起こった日についてです。これ中・高でも近現代史で習いました。まぁ昭和23年生まれのオイラにとって、幻のように遠い昔なのですが。ただこの昭和11年には最近オイラにとってある「思い」があるのです。
不動産登記法の残滓と残渣
父親から18年前に相続した土地についてなのですが、その土地は、オイラの住んでいる地域の里山にあります。不動産登記簿の甲区によると父の時代にその土地(1728㎡)、昭和48年(1973年)にある企業により売買予約がされ、「所有権移転請求権仮登記」が設定され、そのまま今日に至っています。地目は畑です。相続数年後、どんな土地かと調べようとしたのですが、あまりの急峻な土地であり、雑木林となっていましたので億劫になり実行しませんでした。いわゆる耕作放棄地というやつで。聞いたところによると、当時その企業が、大分譲地開発、またはゴルフ場開発を目論んで、所有者から買収するために活動したのですが、地目が畑だったので、農地法5条の許可を得なくてはならず売買予約の仮登記をして、事業を進めていきました。しかし、計画全ての土地を獲得出来ず、またその開発計画も行き詰まり、ずっとそのままになって来たようでした。
当時は土地バブルの初っ端なのか、この土地に乙区欄には、その仮登記の債権に対して極度額32億円の根抵当権設定仮登記がなされていました。今では考えられないことが、当時は、普通に行われていた時代だったのでしょう。それ以後日本中が土地神話に基づき、土地バブルに狂っていきました。やがて、1990年から株式バブルが崩壊していき、バブルによって土地の価格がとても庶民には手が届かない価格になり、それに暗躍する地面師や暴力団の買い占めなども跋扈し、社会問題化した時代でした。1980年代後半には、東京都の土地の価格の合計で、米国全土の土地が買えると、まるで信じられないような話が飛び交っていました。1990年代になって、政府は土地の総量規制に打って出て、銀行筋には、土地購買に対する融資規制に乗り出しました。もちろん根抵当権にもメスが入りました。最近、次に相続させる子孫に、こんな土地のまま継がせるには忍びないと、この件について本格的に調査に入りました。・・・・・・・
今はデジタル化の時代で、法務局(登記所)に行かなくても、インターネットで、土地登記簿、商業登記簿を得ることが可能な時代となりました。
登記情報提供サービス 一時利用 決済はクレジットカード番号記入、1件334円(法務局の半値)
そこで、この土地の閉鎖登記簿を取り、過去からの経緯を調べました。オイラの父親が建築士の他に、土地家屋調査士・行政書士を兼ねていて、生前そちらも手伝いましたので、門前の小僧なのです。まずこの土地は、昭和10年に分筆された土地で、もともと、明治44年に国から当時多賀村に贈与(贈興)された土地で多賀村の土地でした。そして昭和11年4月にオイラの祖父(オイラが2歳時死亡)が払い下げを受け、所有者となりました。これが同年の2・26事件の起こった年で、「思い」はここにあります。
当時祖父はこの地域で大工の棟梁でした。今でいうと建築会社の社長。日本は段々大戦に突き進むなか、国内インフラの整備もしていました。祖父は鉄道関係建築の分野に強かったのです。熱海駅から網代駅が完成し、次に網代駅から伊東駅の整備でした。最初は伊東駅はコンクリート造の豪華なものにと設計してあったのですが、段々戦争が激しくなり(昭和12年7月日支事変等)、財政も逼迫と緊急性を考え、急遽木造に設計変更で、ウチの祖父に指名が掛かり、普請をすることになりました。これ国鉄の社史に記述が残っています。建築工事総額は当時の貨幣価値で6万1千8百円と。工事着工が昭和13年2月、その年の年末に開業した。
だから昭和11年のころは、祖父は建築に油が乗り切ったころ、この問題の土地を払い下げしてもらいました。調べを進めていくと。ウチの祖父だけでなく、当時多賀村の農業経験のある村人達に公平に払い下げられました。目的は戦時下の食料増産で当然農業をすることが条件です。公図・登記簿から調べ上げると、少なくても村人数十名総面積は3万㎡以上。まず昭和10年から購入予定者総動員で開墾をして、そこにみかんの苗木を植え、登記官に見てもらい地目を原野から畑に変更となったのが昭和11年。その後希望とくじ引きで、次々所有地が決まっていったと。祖父の長男(オイラの父親)はまだ13歳。3人いる弟はもっと若い。本業が忙しいこともあり、実際の栽培耕作は、同じある村人を小作人にしてやってもらったと、近所にいる長老から聞いた。その彼が相続した土地もウチの隣の土地。オイラが生まれるずっと前の話だ。
話は始めに戻るが、その昭和48年、仮登記がなされたあと(ある程度のカネは受領している)、仮登記された以上みかん栽培をしていても先がないと、これが切っ掛けで次々そこから所有者は耕作撤退していった。急峻な土地で交通の便も悪いことも理由の一つだった。今は雑木林だけの原野となっている。今回47年間そのままになっているので、熱海市の農業委員会は、耕作放棄地の整理ということで、所有者に耕作の意思を調査して、昨年この一群の土地は農地(畑)ではない、非農地だという決定して、各所有者に決定書を送り、法務局に各自でこの決定書を付けて地目変更の登記申請書を出せということになった。これ、登記官が農業委員会の助言で職権で変更しても良いと思うのだが。そのようにはなっていないようだ。
また実はもっと面倒なことがある。調べると、少なくても20筆以上が、同じようにこの所有権移転請求権が付けられていて、総面積は少なくとも3万㎡以上。それが、債権として32億円などの根抵当設定がなされ、それに関わった会社は、商業登記簿を取り寄せると、消滅(清算結了)または解散清算中。そもそもこの所有権移転請求権という債権は10年で消滅時効となる、つまり昭和58年(1983年)に消滅時効となっているのだ。法務局(登記所)は、これらの件は各自が裁判所に訴え、時効の援用してもらい、その決定書の提出で、やっと登記簿上で債権の抹消をしてもらうことになると。または、債権を設定した当人達からの取り下げ申請がない限り(しないからといって罰則はない)、そのまま未来永劫記載されたままになると。裁判するにはカネもかかるし、手間もかかる。司法書士に頼むにも相当なカネがかかる。仮登記の付いた土地なぞ、買う人はいない。まさに不動産登記法の残滓(ざんし)と言える。
そんなこんなで、一昨日午前に、農業委員会の会長でもある仲間のケン坊と一緒に、これら土地を調べようと、現地に行った。土地全体は雑木林となっていて、部分的にかなり急峻なところもあり、木やツルにつかまってででないと登れないところが数多くあり、公図を拡大したのを手に持ちそれを根拠に、どんどん分水嶺に近づいていった。上の方はかなり勾配が緩くなり、平地に近いところもあった。ケン坊と、収穫したみかんはどの様な手段で下に降ろしたのだろうねと話した。今の様な機械はなかった時代だ。それでも共同防除用の塩ビらしき細パイプが埋まっていた。今は各自が防除(害虫駆除剤散布)用の設備をもっているが、40年ぐらい前まで部農会で会員協力しあって、大圧水ポンプを動かし、共同で防除した名残りを見つけた。
段々畑なのだが、段畑の幅は狭く、土留の石垣は皆無。道らしき道はあるような、ないようなで見つけることもなく、多分上り下りした土留階段も大雨で流されたか、朽ち果ててないようだった。あー、ここに祖父が来て小作人に指示をして、収穫時には、当時8人いた家族にみかんを持ち帰って食べさせていたのだろうか。その後、戦後の農地開放でここ以外に、より交通の便の良い里山に、段々畑の柑橘園を入手していたが(今はオイラが管理をしている)。誰の土地か分からないが、小さな小屋があり、昔の木製のみかん箱が無造作にいくつも乱雑に置いてあった。これらをどのようにして、下に降ろしたのだろう。やはり背負ったのだろうか。今ならモノラックを設備して、上り下りは楽なのだが。当時は下までなんとか降ろして、細道をリヤカー・大八車で運んで、そして三輪トラックに集めて平地にある集荷場まで運んだのだろう。とにかく当時の人々は今の数倍の労力で、これらみかん栽培をしていたことが実感できました。
オイラが2歳の赤ん坊の頃亡くなった祖父、写真でしかその面影は見ることが出来ません。祖父に抱っこされたであろうが、その記憶も当然ありません。ウチの土地らしき場所にたたずみ、時空を超えて祖父に挨拶をしました。
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