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2017年12月24日 (日)

ジージ・バーバの二人だけのクリスマス 90年代の日本のバブルに想う

新婚前と新婚時代は、1970年代で、当時かけなしのカネでクリマス曲のレコードを買い集め、二人でクリスマスのムードに浸ったものでした。やがて4年ごと次々子供が生まれ、このクリスマスは我が家の必修のロマンチックな行事が続きました。

そして孫達発生で、またこの行事は続きました。しかし、孫達も成長すると、友人や友人家族と一緒に過ごすようになり、忙しくなっているようで、カミさんは毎度のように部屋をクリスマスを睨んで飾り付けをしますが、まぁいつの間にか、新婚時代に先祖還りをしたように、ジジ・ババ二人だけのクリスマスとなりそうです。まぁ、もともとキリスト教徒ではありませんから、クリスマスを祝う謂われはないわけで。

しかし、北米、欧州などのキリスト教圏の国民は、クリスマスが好きですねー。これ家族の団結の象徴のような。彼らは独りでクリスマスを迎えることは、あまりにも寂しさを感じるそうです。日本人に例えると、独りだけで正月を過ごす寂しさに似ているのかもしれません。オイラ人生で数度、クリスマスや正月をたった独りで過ごしたことがありました。とにかく人が恋しかった思い出があります。

今日はクリスマス・イブなので・・・・・・

ボサノバ風のクリスマスソングです。

クリスマスパーティーのBGMに 

最高ですよ!約1時間 様々なクリスマスソングが続きます

ボサノバ&ラウンジ・クリスマス音楽~伝統的クリスマスソング・クリスマスキャロルメドレー2017

ロッド・スチュアートのクリスマスソングも最高です。BGMにどうぞ!

Rod Stewart Merry Christmas Full Album ♪ღ♫ Rod Stewart Christmas Songs 2018

話は変わります。

今日日曜日、フジテレビの「新報道2001」であのバブルの頃の日本と、今の日本との違いについてやっていました。それでオイラにとってその時代はどうだったのか思い出してしまいました。

土地を担保の不動産融資が活発になって、バブルの兆候が出てきたのは1985年辺りからではないかと思います。ディスコがバブルの象徴のように報じられますが、それ以前に、例えば赤坂見附の近くにあった 「赤坂ムゲン」や六本木にあった「最後の20セント」「クレージーホース」「リビエラ」が先駆けでした。結婚前威勢のいいところを見せようと、かけなしのカネで、のちのカミさんの彼女を誘って行ったものでした。

それらの前の前身が、1960年代の原宿にあった「檻の中」、渋谷だったか「深海魚」、「泥棒貴族」などの絨毯バー&ディスコでした。やがて、1984年に「マハラジャ」チェーンが「麻布十番マハラジャ」を旗艦店として開業しました。

オイラ、建築設計以外にも店舗設計もやっていて、またそのような雰囲気も好きだったので、積極的に仲間を誘って行ったのでした。まだその頃はあまり「ディスコ」という言葉はなく、「サパークラブ」「ゴーゴークラブ」なんて用語でした。

要するに、アルコール・食事が出来、生演奏があり、踊りができる場所ということで、真夜中・明け方までやっているので、特に風営法の関係で警察とイタチゴッコでした。

資料として明確なのは、1989年12月29日に日経平均が、38,915円の最高値を付けて、翌年から凋落していきました。この時が株価のバブル崩壊の兆しでした。しかしまだまだ上がると皆これが天井だとは思いませんでした。まことしやかに4万円は超えるだろうと有力筋からの話だと。

当時地元のポン友カン坊は、株で一財産を作るんだと、神がかりになっていて、銭洗弁天や好機をくれる神社に参拝を繰り返していました。銀行筋も土地を担保にバンバン融資をしました。結局後になって、カン坊は親の遺産も含めて4千万円前後の損失だと言っていました。

その後、株価は2003年4月28日7,607円、2008年10月27日7,162円の底値を付けました。

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株価の天井を過ぎて、1990年代中半までは、まだまだバブルに湧いていました。とにかくサラリーマンには、昇給こそ、それほどではありませんが、ボーナスがすごかった。12ヶ月分以上のボーナスとか、接待費もバラマキのような状態で、それに従って飲食店、販売業、風俗店も売上が鰻登り状態に、また建設業者の世界でもウハウハで職人一人の日当が、2万円超え、3万円超えとなって行きました。建材が不足、職人が不足で建築がストップすることも多くありました。

水商売の世界でも、お客が女の子に数千円のチップを上げるのが当たり前になりました。しかし過剰融資の付けは、不動産担保価値が下がって来るに従って、ボデーブロウのように効いてきたのが、1995年ごろです。

1997年11月に山一證券が廃業、1997年11月に北海道拓殖銀行が経営破たん。1998年10月に長期信用銀行が国有化、などなど、不動産融資をしていた金融機関は次々破綻をし、都市銀行も合併を繰り返し、現在に至っている。

よく、バブルの象徴として出て来る「ジュリアナ東京」は、テレビでは絵になるのか、必ず登場する。1991年にオープンでバブル崩壊で1994年8月に閉店の約2,000名収容のディスコだった。その頃は熱海に建築設計事務所を移していて、さすが縁遠く、行ったことがなかったが。  ジュリアナ東京 ただこれをバブルのあだ花として放映するのは、トンチンカンだろう。単なるディスコブームに過ぎなかったからだ。体を揺すって通っていたのは、全体から見れば、極一部に過ぎない。

更に弱り目に祟り目なのが、米国を中心としたインタネット・バブル(ITバブル)の崩壊だ。

インターネット・バブルの崩壊

日本では、1999年2月から2000年11月までの景気拡張期を、景気の名称(通称)で、「ITバブル」の他に、「IT景気」や「ITブーム」などと呼ばれる。また、2000年12月から2002年1月までの、ITバブル崩壊による景気後退期を景気の名称で、「IT不況」や、第3次平成不況、デフレ不況などと呼ばれる。

日本のバブルが崩壊して、失われた○○年と云われるが、固定資産税の評価額を参考にすると、熱海市では1997年まで上昇してきて、以後下降して行った。まぁ実勢価格は、それより数年前から大幅に下降していただろう。不動産バブル崩壊は1995年前後からとも云えるが、はっきりわからない。

リチャード・クー曰く、その後日本はバランス・シート不況が続き、企業は金融機関に借金の弁済 を優先して、以前のように金融機関から大金を融資してもらうことをなるべく避け、自己資金優先の環境になって行った(内部留保金の増大)。もう、金融機関から大借金をするのは懲り懲りだと。金融機関は甘い査定で土地担保のみでカネを貸すのは懲り懲りだと。不動産の評価価格もつるべ落としのように下がってしまった。例えば、不動産バブル時、1億円の土地の担保価値が、3千万円の担保価値しかない時代になって行った。

生産企業も、以後のグローバル化で、安い人件費や投資費で、海外で生産させる時代になっていった。だから、昔だったら5千円ぐらいするだろうという商品は、ネット通販を通じて、2千円ぐらいで購入できる。ほとんどが中国製か東南アジア製だ。

オイラの場合、1980年後半から1998年頃までが、建築設計と施工の仕事が好景気だったと云える。

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