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2017年12月12日 (火)

江藤 淳が亡くなったのはオイラが51歳の時だった。改めて「妻と私」の本を買って熟読しました。

前記事のように、オイラが青年期の親友が亡くなったりして少し沈鬱な日が続きました。死については、愛猫が死んだことについて記事にしたことがありました。

あまりにも私的な話。・・・・・・愛猫が死んだ。2010年1月11日 (月)

数日前、カミさんの姉と兄が、東京からウチのみかん狩りに来て、海鮮料理屋で遅い昼食をもてなしました。穫ったみかんは、電車で来たので宅急便で発送しました。姉・兄といっても、両者年子なので、さらにオイラとも歳は幾つも変わりません。お互いの伴侶の事、近況の事、昔話しの事、健康の事。それら話の中で、伴侶との別れの話題になって、オイラが「そう云えば、江藤淳の伴侶との別れが記憶に残っている。文藝春秋で掲載され当時有名になった『妻と私』が良かった」と言ったら、義姉が素早く手帳を出し、その題名を書き取っていた。きっと何処かで調達して読むのだろう。

と言っても、オイラはこの「妻と私」を詳細に読んだわけではなかった。ただ当時、彼と奥さんとのツーショットの写真が、全てを表しているかのようで、これからは、カミさんとのツーショット写真はなるたけ、このような笑顔にしなければと自分を戒めた思い出がある。・・・・・・

このような笑顔で行きたいのだが、どうも歳のせいか顔面作りがうまくいかない。

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江藤淳の遺書です。↓

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・心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

1999年に、この「妻と私」が文藝春秋の全文掲載を条件に掲載され、好評を得て新刊本として発刊され、やがて文庫本になった。当時テレビでも多く取り上げられ、オイラも知ることになった。しかしこの頃はもうすでに、PCで文章を読むことを優先していて、本を入手して老眼をとおして読むという旧態からは卒業していた。だから実際は読んではいなかった。

これを機会にと早速アマゾンで購入した。昨日約2時間半で読み通しました。久しぶりに紙文章本を熟読しました。

この「妻と私」は、彼の妻(慶子)が、結婚41年目にして、脳腫瘍を発症していることが1998年5月頃発見され、様々な検査でさらにそのステージが高いことが分かり、先の短い命が尽きるまで、懸命になって妻の介護をした物語だ。当時彼は文芸評論家として有名で、数多くの執筆依頼をこなしていた。妻に病症を告知するかの迷い、仕事との葛藤、病院での人間関係など、まぁ誰でも当事者になれば経験することだが、さすが本職のせいか、その描写が実に細かい。文体、語彙に手を抜くことなく、文章が進んで行く。

あっと言う間に半年の闘病生活が過ぎ、同年11月7日午前零時21分に64歳で死去した。危篤状態になる前後、江藤は妻の手を握り締めることが多くなったと。

ここで思い出したことがある。2002年3月にオイラの父親が死んだのだが、原発が肺腺癌で4年に渡る闘病生活だった。病院と自宅を往復していた。もちろん気晴らしにその間、箱根や浜名湖、伊東の旅館に家族動員で滞在したこともあった。

死ぬ前日、妹夫婦と見舞いに行った時、医者から危篤状態だと知らされ、オイラ父のベッドの横で、父の手を握り締めた。自分が幼児の時以外父親と手を繋いだことは一度もない。まぁ普通誰でもそうだろう。まだ幼少の頃、頭の隅に残っていた記憶では、いかつい大きな手の温もりだった。しかし、それがオイラの方がいかつくなっていた。

病室を3人で出る時、突然、明日は何時頃また来るのか?と父は聞いた。多分午前中に来るよと言った。するとオイラ達にニコニコしながらベッドから手を振って見送ってくれた。あんな笑顔は滅多に観なかった。次の日彼岸の23日午前4時頃亡くなったと、病院から朝連絡が来た。もちろん急行して、そこから葬式の準備が始まった。

この「妻と私」でも、妻の死に際して、それからの葬式の準備が大変だったようだ。青山の墓地に妻の遺骨を収めるまで気丈に頑張るしかなかった。しかし実はこの時点で江藤も病魔に襲われていた。尿が出なくなってしまったのだ。検査してもらったら、急性前立腺炎を発症していて、彼自身も手術と入院が必要になっていた。

妻の葬儀と自分の病気の発症で不甲斐なくて仕方がなかったとある。悪化したら敗血症で死ぬ危険性もあると。妻の看病と自分の病気の発症で大手術。なんとか峠を超え、文藝春秋からの依頼で翌年にこの「妻と私」を完成させた。

妻が絶命したその日の文章の一部

・・・・・しかし、挨拶を済ませて二階へ戻って来るたびに、疲労感は更に深まり、神経が疲れているだけではなく自分の身体自体が、深く病んでいることがわかった。死の時間は、家内が去っても私に取り憑いたままで、離れようとしないのであった。家内とはやがて別れなければならない、そのときは自分が日常的な実務の時間に帰るときだ、と思っていたのは、どうやら軽薄極まる早計であったらしい。何故なら、死の時間と日常的な実務の時間とは、そう簡単に報復できるような構造にはできていないらしいからである 

いったん死の時間に深く浸り、そこに独り取り残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んで行くのである。・・・・・

愚才なオイラが読んでも、体験を共感、共有できる。翌年になってこの「妻と私」の執筆を完了させ、次の「幼年時代」を途中まで執筆していたが、自分に襲った病魔との戦いであったらしい。

江藤 淳(えとう じゅん、1932年(昭和7年12月25日 - 1999年(平成11年)7月21日)は日本の文学評論家、文学博士(慶應義塾大学)。戸籍名は江頭 淳夫(えがしら あつお)、東京工業大学、慶應義塾大学教授等を歴任した。身長160センチ。

1998年暮れ、慶子夫人が死去。 1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。

妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。ライフワークであった『漱石とその時代』は、数回を残し未完に終わった。妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』も未完に終わった。

葬儀は神道形式で行われた。慶子夫人との間に子供はおらず、喪主は実妹が務め、石原慎太郎らが弔辞を読んだ。 門人には福田和也・兵頭二十八・大久保喬樹らがいる。また交流・影響を受けた外交評論家に田久保忠衛・森本敏らがいる。

妄想ではあるが、江藤は愛妻に引っ張り上げられて、あの世に行ったようだ。妄想の世界の話だが、特に親しかった人が亡くなった時は気をつけろとよく云われる。そう引っ張り上げられるからだ。今年知った同級生(女)の死について、旦那が先に逝き、翌翌年彼女も病気の悪化で従いて行った。

今日の記事は、昨日の午前と今日の午後に渡って仕上げました。江藤淳の伴侶との別れを、このブログで記事にしたかったのです。
話は変わります。

昨日午後と今日午前は、シンガポールから来たフジ坊と一緒に青島みかんの収穫に精を出しました。彼は柑橘栽培など農業に大変興味をもっています。シンガポールは面積も小さく、自国で農産物を栽培する風景がありません。今日で青島みかん全体の70%を収穫済となりました。長い昼食時間を摂ってお喋りをし、午後3時ごろ網代駅に送って別れました。そうそう彼の奥方はシンガポール人(華人系)で成人した二人の息子がいます。

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