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2016年12月26日 (月)

糸魚川の大火災。これより大きかった熱海大火災。古い木造家屋は防火外壁も不燃屋根も効をなさない

23日は、東京五輪の番外会場となる予定の自転車競技会場、”伊豆べロドローム”を7歳の孫を助手に行ってきました。これのある”伊豆サイクルスポーツセンター”は、自宅から直山越えで、車で20分あれば行けます。正確には伊豆・修善寺にあります。孫の成長とともに、ここで二人の孫は自転車に馴染みました。オイラが調教をしました。年間数回は行く常連なのですが。今回東京五輪の番外会場に決まったので、改めて行きました。

11660ちょうど12月の快晴だったので、ここから富士山が真正面に望めました。きっと外国から来た選手達も富士山の眺望を楽しめることでしょう。この会場が完成したのは、2011年だったらしいのですが、孫と来た時工事中だったのが、再度来て突然この会場が出来あがっていて驚きました。

このセンターは自転車に関連する遊戯が半分以上あり、初心者用の2キロコースでは、様々な種類の自転車に乗ることも出来、子供が安全に自転車操縦を取得することが出来ます。今回7歳孫は、初めて24インチ自転車をマスターしました。また「おもしろ自転車」は子供が大好きな広場となっています。孫と一緒に行くと、その方面に行くので、可愛い幼子達がウジャウジャいて楽しいです。

さて本題

糸魚川で起こった火災ですが。

12月22日午前10時半に出火して、30時間後の23日の午後4時半に鎮火した糸魚川大火災。延焼が150棟、消失面積が4万㎡に達するとのことです。フェーン現象で山から海側への強風に煽られて、次々飛火して大惨事となりました。この地域は、戦時中の空襲がなく、古い木造家屋が密集していた地域だったそうで、さらに消防車が入れない箇所も多く、消火栓の数も少なく、おまけに、水量も足りず、いわゆるセミの小便状態になってしまった例もあったとか。

米軍による空襲で大火災になった件を除くと、大火災と云われた例は多くあります。敷地が狭いなかに木造の建物ですから、密集した地域は可能性は多ありなのです。

ネットで調べてみました。 火災の年表

この中に

1950年(昭和25年)4月13日 - 熱海火災、静岡県熱海市。破壊消防で鎮火。約1万人が被災。

ちょうどオイラが2歳の頃の話で、この大火によって、古い家屋が焼失し、その後区画整理もされ、「塞翁が馬」ではないが、その後熱海が発展する切っ掛けになったという人もいます。オイラ2歳でしたから記憶はありません。また住まいは熱海の中心部ではなく、伊東方面に網代の手前にある下多賀という地域で、この辺一帯を伊豆多賀とも云います。

しかし、記憶の始発点なのか、父親に抱っこされて、北方面の山越しの空に明るい火が煌々と見えた想いがある。多分後から加わった話がその様に思わせているのだろう。

この熱海の大火には、その10日前に熱海駅前にある、仲見世通りからの出火での火災が前兆としてあった。その仲見世通りは今も健在だ。そして熱海大火となる。

熱海大火ー昭和25年

まだ戦後の復興過程にあった1950年(昭和25年)4月3日、静岡県熱海市の国鉄熱海駅に近い商店街「仲見世通り」で火災が発生、店舗など70戸を全焼した。「熱海で七〇戸焼く 駅前仲見世を一なめ」というのが、翌4日付朝日新聞の見出し。原因はテンプラ油に火が移り、更に付近会ったセルロイド引火、更に天井に燃え抜け大事に至った。熱海市警察署によると、損害額は約2億円に達した。

ところが、熱海駅前での火災から10日後の4月13日、同じ熱海で大火が発生した。この火災を報じる4月14日付朝日新聞の見出しは、「熱海また大火 心臓部全滅千十五戸焼く」というもの。別に「旅館の焼失四十七軒」という見出しもある。

この火事の被害に遭ったのは、「お宮の松」からやや西の海岸地帯。旅館街ばかりか、市役所、消防署、警察、東横デパート、静岡銀行支店、信用組合、毎日新聞通信部、読売新聞通信部等を焼失した。損害は30億円と報じられている。

火元は渚町渚海岸埋立地の工事事務所。出火は午後5時15分頃。原因は、未成年者(18歳)のタバコの火がガソリンに引火したものであった。悪いことに、南東から約15メートルの海風にあおられ、火は内陸に燃え広がった。当時の熱海は水利が悪い、狭い坂道の町。井戸がなく、肝心の水道は水圧が低く使い物にならない。ホースをつないで海水を使用としたが、うまく行かない。糸川、初川の水を利用としたが思うにまかせず。とうとう大きな被害を出してしまった。 以上は、緊迫感溢れる新聞記事。

次に、熱海大火を”歴史的事実”とし叙述している文献を紹介してみよう。1978年に静岡新聞社が発行した『静岡大百科事典』には、「熱海大火」の項目がある。以下は、その抄録。数値関係に新聞記事との相違があるが、新聞は速報性を重視したからであり、不一致は当然のことである。

熱海大火は、「1950年(昭和25年)4月13日夕刻から深夜にかけて、熱海市の温泉旅館街を焼き尽くした大火」であると定義している。続いて、焼失家屋979棟、被災1,461世帯、損害見積54億7000万円とのデータが出ていた。また、大火となった原因として、熱海市の町並みが「ひな段状の海岸傾斜地」となっていて、そこを東南東10メートル以上の強風が吹き付けたことがら、大被害となったと記されている。このため、延焼阻止の設定は全く不可能という状況だったという(市消防当局)。また、水利も悪かった。市内の消火栓は、本管が細いため”共倒れで使用不能”といった案配である。火災の原因は、自動車の給油に使用した20リットル缶にマッチの燃えさしを投げ込んだことにある。残っていたガソリンに引火したしたので、缶を急いで屋外に持ち出そうとしたが転倒してしまった。広がった火に水をかけたため、火は一瞬にして燃え広がった。

熱海大火が発生した1950年は、熱海市が 国際観光文化都市(熱海国際観光温泉文化都市建設法ー昭和25年法律第233号による)に指定された年でもある。同じ時期、別府(昭和25年法律第221号)、伊東(昭和25年法律第222号) も類似の法律に基づき温泉を主体とした国際観光文化都市に指定されている。 国際観光文化都市(こくさいかんこうぶんかとし)とは、日本において、日本国憲法第95条に基づく個別の特別法又は国際観光文化都市の整備のための財政上の措置等に関する法律(昭和52年法律第71号)により、国際的な観光・温泉等の文化・親善を促進する地域として指定された都市をいう。

まぁ、この大火によって歴史のある旅館や由緒のある家具や資料も焼失してしまったわけだが。

Taikamap
特に、糸川沿いの家屋は全滅に近い。なお市が買い取った”起雲閣”は今も健在で市関連の擁し物が行われている。父親が、この起雲閣裏の焼失した土地を一部買い取って、そこに建物を建て、一部を建築設計事務所として使った。オイラも30歳の時東京からここへ事務所を移した。父親の死後、10年前に買い手が付いたので手放した。

この起雲閣についてはエピソードがある。

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)

という作家なのだが、この大火の日、伊東にいて大火を観るために熱海まで来たと。その時の模様を面白可笑しく書いている。

安吾巷談 熱海復興 坂口安吾

私が熱海の火事を知ったのが、午後六時。サイレンがなり、伊東のポンプが出動したからである。出火はちょうど五時ごろだったそうである。  

その十日前、四月三日にも熱海駅前に火事があり、仲見世が全焼した。その夜は無風で、火炎がまッすぐ上へあがったから、たった八十戸焼失の火事であったが、山を越えて、伊東からも火の手が見えた。もっともヨカンボーというような大きな建物がもえ、焼失地域が山手であったせいで、火の手が高くあがったのかも知れない。このときも、伊東の消防が出動した。三島からも、小田原からも、消防がかけつけていた。

なんしろ火事というものは、無縁のヤジウマが汽車にのって殺到するほど魅力にとんだものだから、血気の消防員が遠路をいとわず馳けつけるのもうなずけるが、温泉地の火事は後のフルマイ酒モテナシがよろしいから、近隣の消防は二ツ返事で救援に赴くということである。  

四月三日の火事から十日しかたたないから、マサカつづいて大火があるとは思わない。外を吹く風もおだやかな宵であるから、ハハア、熱海は先日の火事であわてているなと思い、又、伊東の消防は熱海の味が忘れられないと見えるワイ、とニヤリとわが家へもどり、火事はどこ? ときく家人に、 「また、熱海だとさ。ソレッというので、伊東の消防は自分の町の火事よりも勇んで出かけたんだろうな」  と云って、大火になるなぞとは考えてもみなかった。

そのときすでに、熱海中心街は火の海につつまれ、私の知りあいの二三の家もちょうど焼け落ちたころであった。  私は六時半に散歩にでた。音無川にそうて、たそがれの水のせせらぎにつつまれて物思いにふけりつつ歩く。通学橋の上で立ちどまって、ふと空を仰ぐと、空に闇がせまり、熱海の空が一面に真ッ赤だ。おどろいて、頭を空の四方に転じる。どこの空にも、夕焼けはない。北の空だけが夕映えなんて、バカなことがあるものじゃない。  熱海大火! ・・・・・・・・・・・・(本文を読書の事)

伊東からも熱海大火の火が煌々と見えたそうだ。 当時仲間であり、熱海を常宿にしていた福田恆存や石川淳の話も出てくる。当時は、糸川沿いを中心に街娼があまりにも有名で、まず熱海の復興は、街娼の復活から始まったと。売春防止法は昭和32年施行なのだが、私娼(管理売春は禁止)はOKなので、35年ぐらい前まで袖引きがいた。熱海のお客の楽しみはこの糸川沿いを浴衣を着て歩くことだった。あと芸者もその方に活躍した。また、店の女将に頼めばなんとかなった。今はその面影もないが。

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