お盆です。そもそも日本の葬式仏教の起源は?外国人に説明するときは葬式宗教だと説明するのだが。
そろそろ、お盆です。熱海市内は、8月13日~16日がお盆の期間で、16日の夜は灯篭流しが行われ、海岸沿いに夥しい数の送り火が燃え盛り、海を照らします。すぐ傍の網代では16日には送り火花火が打ちあがります。これには町内会や様々な団体が奉仕で参加します。灯篭流しは、その時の潮汐(ちょうせき)や、風向き、波の高低によって、大変好調な時もあれば、なかなか沖に流れていかない時、途中で蝋燭の火が消えてしまったりで、この進行係りの人は、海に胸まで浸かって、灯篭を誘導します。またその沖には船もいて、さらに沖に誘導をします。
大昔、熱海も都会並みに7月15日お盆を画策したのですが、その年に熱海大火が起こり、これは、お盆の日を変えることへの祟り(たたり)だとの意見が多く盛り上がり、結局旧来からの8月お盆(田舎お盆)のままとなりました。まぁ熱海は観光の町なので、都会と同じ日にするより、1ヶ月ずれているほうが集客には良いだろうということで。
毎年同じ日に同じ事を行うということは良いことで、それぞれが追憶として積み上げられます。ウチでは14日の午前か午後に菩提寺から住職が来て、読経をします。3千円が入った封筒をお礼に渡します。ですからこの日は、ただひたすら坊さんを待つことになります。先祖代々からですから、やめないでただ惰性というかなんというか。
昨日夕方、カミさんと一緒にウチの山に寄って、シキビを採り、お墓に行って掃除をして、そのシキビを墓に供えました。亡き2匹のネコの墓も造ってあって、両名前を彫った墓にも同じように。毎年同じ事をやっています。日本の仏教の普及について、ある記事からですが・・・・・・
世界に数多くある宗教といわれるもののなかで、日本の仏教というのは、やはり特殊な仏教のような気がします。代々受け継がれてきたので、思考停止のように菩提寺に従っているのですが。いわゆる葬式仏教といわれる所以ですが。
実は、日本では太古には死者をそれなりに弔うということは、一般庶民の間では珍しかったと聞いています。それより人間死ぬと悪霊になるという考えもあったそうで、その為に棺桶はあったそうですが、その棺桶から悪霊として飛び出さないように、死者の手足を縛って入れたそうだ。もちろんそれは、カネのある階級で、庶民はそのまま野ざらしか、少し掘って土を被せるということが多かったと。人は死んだら悪霊(悪魔)になるわけで、残された人にとっては悪敵になるわけです。まぁ、ある階級以上は、盛大な弔い(葬儀)はあったでしょうが。
父親が生きている時聞いたのですが、戦前、戦後すぐの田舎では今のような火葬場はなく、いわゆる野焼きで火葬にされたそうです。当時青年会という組織があって、死者が出ると、青年会が中心となって、棺桶を担ぎ山の特定の野焼き場まで運び、そこで燃やす焚き木を積み上げ、一晩かけて焼き上げると。眠い目をこすりこすりしながら火の番をするわけで、それが突然、火葬中の死者の足が飛び上がることもあるそうで、わーっと若い衆は逃げたとか。翌朝、関係者が骨になった遺骸を集めて骨壷にいれ、臨時の墓に埋葬したと。大昔父親はその話を苦笑しながら話してくれた。
で、そもそもなぜ仏教が葬式宗教と云われることになったのか?ということですが。
【葬式仏教の日本】葬式仏教の誕生 名もなき僧侶が活躍した時代 2015.7.28
鎌倉時代が終わり、14世紀に室町時代が始まります。15世紀の中頃、室町時代も後半にさしかかる頃に、京都を中心に応仁の乱という内乱が起きます。応仁の乱は10年で終息しますが、これをきっかけに戦乱は全国に広がり、戦国時代と呼ばれる戦乱の時代が始まります。
戦乱の時代は日常的に人が死ぬ時代です。略奪行為も頻繁に行われるようになりました。繰り返し飢饉(ききん)が起きる時代でもありました。村々では働き盛りの男子が戦にかり出され、男手が不足していたことも、飢饉を加速させました。
人々は家族の死の悲しさと、自らの死の不安によって、どん底と言ってもいい暮らしを強いられていました。庶民にとって死はいつも隣り合わせでした。しかもほとんどの人は死んでも、弔ってもらうことすらありません。のたれ死にして、うち捨てられた遺体もあちこちにあったのです。
この時期、こうした不安に苦しむ人々に対して浄土での往生を説き、亡くなった人の葬儀をする僧侶らが現れます。彼らは死というものが必ずしも不幸なことではなく、誰もがあの世で幸せになることができると説きました。そして、仏教で葬儀をすることによって、死者を浄土に送り届けることができると説いたのです。
実は、それまでも仏教での葬儀は行われていたのですが、あくまでも僧侶に対してのみだったのです。受戒していない(正式な仏教徒になっていない)一般の人たちに葬儀をする作法がなかったのです(現代の一般人の感覚からすれば、受戒をしていようが、していなかろうが、たいした問題ではないように思えますが、当時の僧侶にとって「受戒」というものは、決して無視できない重大な問題だったのです)。
しかし、庶民らに浄土を説いていた名もなき僧侶らは、こうした決まり事にこだわることはありませんでした。それどころか、受戒していない、つまり正式に仏教徒になっていなくても、死んでから戒(かい)を与えるという作法を生み出しました。葬儀の儀式の最初で、死者に戒を与えて仏教徒にするのです。そうすれば、それまで受戒をしていなくても、仏教徒として葬儀をすることができると考えたのです。
この考え方が、今でも続く”戒名”に繋がります。例えば”信士”なら50万円の戒名料だが、”居士”だと70万円、”院居士”だと100万円以上だと相場を言われるわけで。だから「オレは戒名なんていらないよ!」と拒否したら寺は受戒してないので、葬儀は行えないということになるわけで。初期のころは、そんな金銭の要求はなかったはずだろう。まぁ今の坊さんは「永代供養料というわけで」と説得してくる。墓と仏壇があるのだから、寺で供養は望んでいないのだが、それらの一貫だと言ってくる。
この時代、こうしたたくさんの名もなき僧侶が活躍するようになっていきます。 「葬儀をする僧侶」の存在は、民衆にとって大きな癒しとなっていきました。これによって仏教の人気が一気に高まっていったのです。そして、全国津々浦々まで仏教の葬儀が広がり、仏教に帰依する人が増え、たくさんの寺院が生まれました。
ちょうどこの頃、惣村(そうそん)といって、農民の自治組織が生まれたことも、この動きを加速させました。お堂をつくって、自分たちの先祖を守ってくれる僧侶を迎え入れる村が増えてきたのです。 この結果、仏教は爆発的に広まります。
現代日本に約8万5000の寺院があると前述しましたが、このうち約9割が、この時代、つまり、14世紀後半から16世紀前半の約200年間に開山されたものです。これを見ても「葬儀をする僧侶」による仏教の広がりが、いかにすごかったかが推察できます。
また、庶民の葬儀をするようになった僧侶の多くは、鎌倉新仏教に属していたことも特徴的です。中でも、浄土系と禅系が積極的に葬儀を行っていました。鎌倉時代には少数派だった鎌倉新仏教が、次の室町時代に一気に広まり、多数派への道を歩むのです。 これは鎌倉新仏教が、個人の救済をテーマとしていたことと深い関係があります。個人の救済を目指すがゆえに、目の前で苦しんでいる人々を救うことに躊躇(ちゅうちょ)がなかったということです。
ただ、個人の救済を説く教えは、そのままでは人々の心を捉えることができませんでした。言葉でそれを理解するには、難しすぎたのです。ところが室町時代の僧侶らは、救済の教えを、死者を弔う儀式として表現しました。人々は儀式空間に身を置くことで、浄土が本当にあることを感じ、浄土への往生を確信したのです。これが人々の心を捉えたのです。
この時代の葬儀への取り組みがなかったら、仏教がこれほど日本に定着することはなかったのは間違いありません。日本の仏教が、国家の支配を離れ、最も生き生きとしていたのはこの時代でした。それは名もなき僧侶らが人々に寄り添い、人々とともに歩んだ時代だったのです。 葬式仏教はこうして生まれ、仏教が根付いたのです。
日本での仏教が、葬式と法要が大部分というのは、この時代に基礎が築かれた、ビジネスモデルが築かれたようだ。さらに戒名でいわゆる永代寄付をごっそり取るというビジネスモデルがこんにち定着していった。また江戸時代になってキリスト教を阻止する意味もあって、寺請制度でキリスト教徒ではない証明を寺で出してもらい、それが檀家制度となっていった。だからほとんどが菩提寺をもってる。但し沖縄は琉球だったのでそのようなことはない。沖縄では寺を見つけたことはない。
ありがたいと云われる読経を聞いても、意味は全然理解できません。いや理解できないから良いかもしれません。意味がわかったら、オイラのような理屈っぽいのから、あーだ、こーだと理屈をこねられることになりますからね。マルクスは「宗教はアヘンだ」と云ったが、死後を安楽な冥土だと云って辛い悲劇をなごませることは、心へのアヘンなのだろう。ただオイラのような人間は全然信じていないので、それでなごむことはない。それより葬儀という義務のようなものを果たしたという安堵感に近いものかもしれない。
仏教の開祖と云われる釈迦は、弟子にこう訊かれた「人は死んだら浄土に行くことができるのでしょうか?あの世はあるのでしょうか?」と。釈迦は「あの世があると思ってもいけないし、無いと思ってもいけない」と。つまり人は死んだあと、どのようになるかなぞ考えてはいけないと。今の煩悩から脱却することが大事だと。まして当時あったバラモン教のように、死後の救いを説いて、それをカネにしてはいけないと。
オイラはこちらの方が好きだね。死んだらその面影・記憶は関係者の心の中に宿る。各人の心に入る。だから、墓も仏壇も鏡のようなものであって、拝むことは、それが反射して自分の心の中に拝んでいることと同じだと。仏は自分の心の中にいると思っている。
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