イスタンブル漫遊-4 簡単なイスタンブルの歴史とアヤソフィアについて。
前記事のスルタン・アフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)の北東側には、間に大きなスルタン・アメフメット広場を挟んで、アヤソフィア博物館がある。現在はジャーミィ(礼拝堂)ではなく、博物館として存在している。とにかくイスタンブルに観光で来た人々は必ずここに来るので、この広場を歩くと、様々な物売りが声を掛けてくる。スカーフ(ベール)売り、季節的に焼き栗と焼トウモロコシ売り、ザクロのジュース売り、様々な土産売り、まぁ、賑やかなのだが。
気をつけなくてならないのは、愛想よく話しかけてきて、だんだん仲良くなり、ジュウタンの店や、パックツアーの店に連れて行き、高く買わせようとするらしい。この手は多少日本語が話せたり、英語が話せたりする。もちろん旅慣れオイラには通用しない。「私はあんたを必要としない!」と日本語だったり、英語だったりで拒否をする。もちろん一切無視の場合もある。
カフェテラスの前を通ると、必ずその店の呼び込みが出て来きて、客引きをする。大昔この手は日本でも多くあったが、法律で禁止されてなくなり、今や懐かしい。まぁ、終いには鬱陶しくなるが。しかし1日中ここでこんなことをしながら、どのくらい効果があるのか、どのくらい売り上げるのか?それでもやり続けるというまことに生きるに逞しい生活をしているようだ。
夕方になると、これ一番参ったが・・・・・・・・
観光客の通行が多いところでは、母親が毛布で包まれた幼児を抱えて金請いをしている。で、幼児はどのような仕掛けなのか、まだ夕方なのにスヤスヤ寝ている。その幼児はまるで天使のような顔をして寝ているのだ。こんな場面はここだけではなく、その他の場所を含めて6回ぐらい遭遇した。見ると胸が痛くなる。やってはいけないとは思いつつ、孫の寝顔を思い出したりして、つい小銭を渡したり。これに関してこんなことがあった。ベリーダンスのショーを見に行った帰り、やはり遭遇。酒も入っていて、つい仏心も出てしまい、5TL札を渡した。それがあとで手持ち札を調べたら、同色系の50TLだった。夕方で薄暗く、またアルコールが入っていたので間違えたのだろう。その母親貰ってビックリしたかもしれない。そしてますますこの仕事に張り切ったかもしれないかも(トホホ)。昼間見たら、どうもロマ(ジプシー)系らしい。欧州ではまことに多く見かける問題の人々なのだ。子供を学校に行かせないから、ますます問題人の連鎖のなかにある人々だ。
昼間はこのようなところで日向ぼっこをしていた。
スペイン・フランス・イギリス・ドイツ・カナダでも繁華街の路上では、大道芸のお仕事もあるが、このようにただ「おカネをください」も多く見た。それも若くて完璧に働けそうなのも混じっている。「働け!」と心の中で怒鳴ったが。これはロマ人ではなく、白人で”ぐうたら”だけかもしれないが。
で、このアヤソフィアなのだが。詳細は アヤソフィア
ここの見学料金は25TL、またオーディオ・ガイドの貸し出しが15TLなのだが、貸し出し担保として、パスポートかIDカードだと。それは無いがVISAカードでどうだと言ったら、それで良しだった。
(以下画像上クリックで拡大)
かのローマ帝国は、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれ(395年)、東ローマ帝国はここイスタンブルを首都とした。このころはコンスタンティノーブルと云われて(330年から)、イスタンブルの前身の名前。これがビサンティン帝国と云われるようになり、ビサンティン文化が花開いた。また当時キリスト教圏最大の都市となった。そして、頑丈な城砦をこの街を囲むように築城をして、度々の攻撃をはね付けて来た。しかし、キリスト教圏の国同士の戦いが始まり、1204年ごろ、第4回十字軍の攻撃で弱体化が始まり、とうとう1453年にイスラム系のオスマン帝国に、このコンスタンティノーブルが陥落された。(この戦いの詳細は、後日パノラマ歴史館で紹介したい)そしてここが、オスマン帝国の首都となった。十字軍はイスラム教国を攻めたのと思っていたが、そうではなく、カソリック教とギリシャ正教との戦いだったのだ。オイラこの歳まで思い違いをしていた。
この城壁の規模は、半端なものではない。もちろんそれ以前に、今の中国において、紀元前250年前後に秦の始皇帝が、”万里の長城”を築造したが、イメージとしては同じようなものだろう。因みにこのコンスタンティノーブルの名称からイスタンブルに変わったのは、トルコ革命後の1930年からだそうだ。
ここはキリスト教(ギリシャ正教)の大聖堂だったのだ。ただ現在のものと同じかといえばそうではない。何度も破壊・再建が繰り返されたそうだ。やがてオスマン帝国の時代になり、一部は残されたが、ムスリムのジャーミィとして使用されることになり、イスラム建築様式に改造されて行った。
さらにオスマン帝国は、これをキリスト教色を一切排除したわけではなく、キリスト教関連のモザイク画などは大切に残したようだ。ちょうど館内は、修復工事中だった。1934年にこのアヤソフィア・ジャーミィは世俗化され、博物館として保存されるようになった。ここで礼拝をすることは禁止されている。度重なる地震に襲われ、修復に継ぐ修復が行なわれている。
多くの地震の影響を受け、モザイク画もヒビが入り、これから延々と修復が続いていく。
グーグルアースに加筆してからスクリーンショットをしたこの辺の地形だが。
画像上でクリックで拡大
面白いことに、日の出前・正午前・15時前・日没前・睡眠時前にサウジアラビアのメッカの方に向かって祈るよう、祈りの呼びかけ放送が、各ジャーミィから流される。この時はまず、ブルーモスクから始まり、ダブって次にアヤソフィアの方から、次にダブって近くの小モスクから。テレビなどでお馴染みの呼びかけ放送なのだが、なにを言っているのか分からないが、印象としては、日本の木遣り唄とド演歌と民謡とをミックスしたような響きで、それも各モスク掛け合いで流しているように聴こえた。まさにムスリム全開といったところ。なかなか良い雰囲気だった。
で、イスタンブルにあるジャーミィ(モスク)はこれだけではなく、立派なのがそこらじゅうにある。大中小合わせて、なんと3113もあるとのこと。
もちろんトルコは政教分離(世俗主義)をとっているので、ムスリムの戒律は緩い。スカーフ(ベール)を巻かない女性もいるし、アルコールを呑む人もいる。完全武装の ブルカ こそ見なかったが、黒衣装づくめで、目だけ出している女性もたまに見つけた。
ちょうどホテルでの朝食の時、この黒尽くめの女性5人が食事をしていた。やはり目の回り以外は黒い布で覆っている。どうやって食べるのか観察したのだが、その食べ物、飲み物は、口とその布の間に持って行き、自然に食していた。その女性が美人なのか、そうでないのかは分からなかった。
次の記事に続きます。
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コメント
私もヨーロッパにはよく行くほうですが。
このロマの母親のカネ請いについて。
これ本当の自分の子供ではないことが多いです。
一時白人系の子供をさらって、または借りてこのようなことをする親もいたそうです。
「夕方なのに幼児がスヤスヤ寝ている」これって、なにか寝させる事(なんなのか確証はないですが)をしていることが多いとか。
あんな喧騒の多いところで、寒い中、毛布に包まっていたとしても、まるで死人のように寝ているのです。私も人形ではと確かめたのですが、人形ではなく生きた幼児でした。極楽トンボの日本では考えられないことが多いです。
投稿: クミコ | 2013年12月 2日 (月) 17時25分