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2013年10月28日 (月)

イギリス漫遊-8 だんだん慣れてきたロンドンの地下鉄。ロンドン博物館で、帝国戦争博物館で新たな知見を得ることができました。

土曜日のサタズバで、”みのもんた”が番組を降りることが、TBSと決着して、番組自体はミノなしで続けることにしたと番組初っ端に声明があった。息子の不祥事が原因としているが、ここ数年のミノの司会者としての劣化に、視聴者が嫌気がさしてきて批判も多く、また相変わらずの女子アナに馴れ馴れしい態度とセクハラと誤解されるような振る舞い。年間数億稼ぐのに、貧困者の味方の振りをして正義を語る。さらに、息子二人のミエミエのコネ入社なのに、他人のこれは批判する。もうテキヤのような口調に皆飽きて、呆れてきたのが、この空気を作ったのだろう。そして、今朝の朝ズバでは約70分あったという彼の記者会見を流していた。たしかに彼の弁舌は超一流だね。ただそれと彼自身のこれまでの番組での言行はあまりにも遊離しているように感じた。彼はTBSの株の個人筆頭株主との話もある。真偽は分からないが、これら番組を私物化したような彼で、やがて彼は番組では裸の王様のようになっていったのだろう。番組制作者達も、偉そうに喋るコメンテーター達も、ミノについて見ぬ振りをしていたということ。自分が降ろされるのを心配したのか?記者会見の最後っ屁、息子さんに何を一言いいたいですか?大きい声で「バカヤロウ!」。息子に対してなのか、自分に対してなのか、記者共に対してなのか、TBSに対してなのか。TBSのこの番組ではこのシーンはカット。続いてテレ朝のモーニング・バードではカットせず流した、フジTVの特ダネでは、彼の記者会見自体を取り上げなかった。まこと面白い。

さて、ロンドンですが、道路に関しては、パリやドイツのフランクフルト・ミュンヘン、そして小都市も決まって、昔からの石畳の道路を守っていて、自動車の走るゴロゴロといった音が聞こえたが、またトランクを引き摺るとガタガタの音だが、ところがロンドンの道路は今やほとんどがアスファルト舗装にされている。歴史観が味わえるのは、石畳の道路なのだが、実用の面ではやはりアスファルト舗装のほうが良い。また石畳は花崗岩を立方体に整形したもので、昔よりコスト高で、アスファルト舗装の方が、はるかにコストが安いし、工事も早いと考えられる。

セント・ポール大聖堂のある地下鉄セント ポールス(st. pauls)駅で降りて、ロンドン博物館に出かけた。地図を見ながらだが、これが非常に分かり難い。大きな交差点の中に孤立してあり、そこに行くのには、傍の高層建物の中からエスレーターで上がり、道路を横断する空中廊下でたどり着くと行った具合。こにに行きたかったのは・・・・・・

ロンドン自体の遍歴と、特にロンドン大火災、ペストの大流行などもう少し詳しく知りたかったのだ。

Dscf2046_r 拡大すると”MUSEUM OF LONDON ”の表示が見える。 ここでも入場無料で日本語のオーディオ・ガイド機器を借りて館内を回った。

そもそも、イギリス列島とヨーロッパ大陸は数億年前までは、陸続きだったそうで、ちょうど日本列島が、大陸と繋がっていたのと同様らしい。館内には紀元前24.5万年~18.6万年の遺物から始まって、近代に至るまでの遺物とその説明があった。この博物館、最近新設されたのか、リニューアルされたのか、とにかく新しい。

興味があったペスト(黒死病)大流行なのだが、これに付いて多くをさいていた。

Dscf2047_r そもそも、ペストと云うのはドイツ語で、英語ではplagueと云うらしい。さらに分かり易くここでは、”The Black Death”と表示されていた。太古の時代から時々大発生していて、542年~543年東ローマ帝国でも大流行したことがあった。その後、

472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全ヨーロッパにまたがるペストの大流行が発生した。当時、モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが、この大流行の背景にあると考えられている。

1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。 1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。

全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

イギリス、特にロンドンでは1348年に大流行をした。最初はこの病原菌をもたらすのは、犬か猫だろうと。そこで一斉に犬・猫狩りをした。そしたら、原因はこれに感染したネズミとそれを伝達したノミだったので、ますます増え逆効果になってしまった。またこの恐怖により、集団ヒステリー化して魔女狩りも発生し、多くの女性が虐殺されたと云う有名な話もある。

その後、1952年~1953年に掛けても、ロンドンは大流行となった。また1664年から1665年に掛けては、ロンドン市民約7万人が死亡したとある。

ここに詳しく解説されたものがある。第 4 回「ペスト」-中世ヨーロッパを揺るがせた大災禍

すこし長い論文ですが読んでいて大変有意義です。今の放射脳者達による妄言パニックを理解するのには大変有意義かと思います。

なんだかんだで、ヨーロッパにおけるペスト感染死者と風評被害で巻き添えを喰った犠牲者は人口の半分以上というとんでもない事態を経験したのです。欧州にいくたびに、キリスト教の大聖堂・教会などこれでもかと云う位あり、未だにこの一神教の宗教に厚い宗教心を持っている彼らを理解する一部として、彼らの歴史には、このような過去があったことも理解したくなります。またそれが原因で残虐な争いもあったことも。

宗教改革で、キリスト教のカソリックから、プロテスタントが生まれ、キリスト教が二つに分かれた原因の一つに、このペストの大流行もあるそうです。イギリスは、キリスト教でも、プロテスタントが51.3%、カソリックが13.6%と圧倒的にプロテスタントだ多い。カソリックとプロテスタントとは大きく内容が違う。またイギリスのプロテスタントは、ドイツ、フランスとも違って、英国国教会となる。カソリックがバチカンのローマ法王を頂点とした中央集権制に対して、プロテスタントは謂わば地方分権制で、バラバラなのだ。カソリックが聖母マリア信仰であるに対して、プロテスタントはそうでない。カソリック教会では神父というが、プロテスタント教会では牧師という。

さて、ロンドン大火災についてですが。

1666年9月1日、パン屋のかまどから燃え広がった火は4日間にわたって燃え続け、ロンドン市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が焼失した。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。このように燃え広がった原因は大火以前のロンドン市内では家屋のほとんどが木造であり、街路も狭かったためである。

Dscf2048_r 当時民間の建物はこのような木造の建物がひしめいていた。これドイツの一般の建物と同様みたいだ。

Dscf2049_r このように、大火1日目、2日目、3日目と類焼の地域分けの説明があった。場所はロンドン塔の左地域一帯。現在の”The City Of Rondon”謂わば現在金融の特別区のようになっているシティーの地域と重複する。

Dscf2085_r金融街シティー:ここは特別区のようで行政区が違うようである。

Dscf2050_r 対岸から見た、大火のスケッチ。面白い記述は、この大火によって、1664年からここに蔓延っていたペスト菌をばら撒くネズミも一緒に退治されてしまい、まだ燻っていたペストの流行が収まったとの事。

建築家クリストファー・レンやジョン・イーヴリンは大火後直ちに壮大な都市計画を構想したが、大地主などの反対にあい実現しなかった(ただし、実際は反対はなく、そもそも検討すらされていなかったという説もある)。しかし、レンの尽力によって1667年には「再建法」が制定される。家屋は全て煉瓦造または石造とされ、木造建築は禁止、また道路の幅員についても規定された。ロンドンの復興にはノルウェーの木材が輸入され使用された。 地下鉄モニュメント駅近くにはロンドン大火記念塔がある。高さ62mでこの高さは塔から大火が始まった地点までの距離と同じである。復興を記念してレンとフックの設計により1677年に建てられた。

現在のロンドンの都市計画の源が、この復興の際の都市計画で、関東大震災後の後藤新平が出した復興都市計画は、都民・議員の大反対でほとんど実現しなく、僅か一部(昭和通り等)でしか実現できなかったが。 その差が現在のロンドンと東京の差となっている。このような場合、日本政府は庶民に対して弱すぎたのだろう。またそれほどの見識のある庶民が少なかったのだろう。

ロンドン漫遊はさらに歩を進め、今度は帝国戦争博物館(Imperial War Museum)の見学をした。地下鉄lambeth north駅からまた地図を見ながらだったが、ここも分かりにくかった。

Dscf2087_rなにげなく、広い公園に接してその建物はあった。

なんでも改装中が続いていて、大掛かりな飛行機や戦車・軍事武器などの展示は見れなかった。それでも、小さい遺品は展示がされていたが、メインはドイツの行なった、ユダヤ人に対するホーローコーストだった。カメラ禁止だったので内部の写真はないが、昔小学生のころ、親が持っていた”夜と霧”に出ていた写真と同じ写真を見ることが出来た。また本物の夥しい靴、髪の毛、その他没収された本物の遺品を莫大な数を。

ペスト大流行の時でも、ユダヤ教の人々は清潔な習慣からか、感染して発病する割合が低かったらしい。それをユダヤ人がわざと井戸に菌を投げ込んだという風評が高まり、相当な数のユダヤ人が虐殺された歴史がある。

欧州中に拡散して住んでいたユダヤ人。”ヴェニスの商人”の時代からこのユダヤ人は金融業が得意で、また知的水準も格段に高く、このイギリスに於いても、多くのユダヤ人が生活していた。もちろん本来のイギリス人大半がそれを歓迎していたわけではない。だから、ペスト大流行の時などは、この時とばかり汚名を着せられ虐待されてきた歴史がある。またキリスト教自体が、キリストはユダヤ人のユダの裏切りによって磔になったと、本当に信じている側面もある。宗教絵画もこれをモチーフにした絵画は山のようにある。オイラはこれは風評が作られたと考えているが。ユダヤ人は歴史的に欧州での他の民族からは、嫌われていたことは事実だった。

しかし、この博物館でも、いかにドイツのナチス(NAZIS)がこのユダヤ人を虐待・虐殺したのかを、これでもかと遺物や資料を展示してあった。可哀想なユダヤ人というように。そして念押しするように、ドイツ軍・ドイツ政府ではなくナチス(NAZIS)で統一されていた。

カメラ禁止なので説明文をメモしたのだが、ドイツでのユダヤ人への迫害で、当時ドイツにいたユダヤ人は、避難民となり、様々な国に脱出した。

”THOUSANDS SEEK REFUGE”(何千人もが避難する)という表題で、

ノルウェイに2千人、スウェーデン3千人、デンマーク2千人、オランダ3万人、イギリス5万人、ベルギー3万人、フランス3.8万人、スイス8千人、イタリー5千人、ユーゴ7千人、ハンガリー3千人、チェコ6千人、ポーランド3万人、スペイン3千人、ポルトガル1.2万人、オーストラリア9千人、上海2万人、カナダ6千人、米国9万人、南アメリカ7.5万人、南アフリカ6千人、パレスチナ6万人等。そして、1938年・1939年にドイツからユダヤ人50万人がオーストリアからこれら国々に脱出したと。

ところが、その中で脱出の仲介手助けをした、日本の名前、また日本人外交官:杉原 千畝(すぎはら ちうね )などの記述は無かった。 (不満)

改装中で展示としては一部であろうが、さぞや植民地争奪戦の時代の大英帝国軍の活躍(残虐な進出も)を楽しみにしていたのだが、また日本軍の攻撃で大敗した件(シンガポール)など一切なかった。どの国も自国の自虐的な戦史は伏せておくものなのだ。靖国神社の横にある、遊就館( ゆうしゅうかん)だって同じであり、国際的に見ても何ら批判を受けるものではない。

なんてなことをブツブツ言いながら、この帝国戦争博物館を出た。

次は、ギャラリー編に続きます。

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コメント

みのもんたについては、毎日朝3時起きで4時スタジオ入り。根が酒好きで、騒ぎ好き。高級クラブで飲んでそのままスタジオ入りも多かったらしい。だから番組の最中居眠りや、つじつまの合わない言行が多かった。特に奥さんが病気になり監視の目が無くなってから酷くなったようだ。そして奥さんの逝去で孤独となった。生活も乱れていただろう。番組中に眠らないよう、おかしな体操もしていた。

それがシリアスな時事に関して、独自の主張を強調する。まさに私物化された番組のような感じだった。
息子の件はそのキッカケだったわけだ。
「お天とう様は良く見ている」って、ミノ!お前のことだよ!

投稿: カゲロウ | 2013年10月29日 (火) 14時38分

みのは、愛川欽也風になっていった。この愛川欽也って、CSの番組(朝日ニュース何とか)で言いたいことを言っていた。勿論劣化した、偏向した自論を展開が全開だった。勿論今年、番組は閉鎖。愛川欽也と比べれば、まだみのはマシだった。酷い報道番組だったよ。

投稿: | 2013年10月30日 (水) 10時10分

みのもんたよ!

69にもなって後進に道を譲る訳でもなく、俺が被害者、俺が被害者ってみっともない。
坂出の兄弟失踪事件では悲しみに暮れる被害者親族を指さし公共の電波使って犯人呼ばわりで罵倒したお前が、ぼくはイジメられています?
お前の70年近い人生って、何か人様の役に立ったのか?珍プレー好プレーしか能がない電波乞食が。

投稿: syura | 2013年11月 2日 (土) 14時07分

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