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2013年6月 8日 (土)

3歳のころ家族で訪れた出雲大社。なんとなくまた訪れたくなったのだが、そこで昨夜ミステリアスな世界に入ってしまった。

自分の子供が、幼少の頃にはそれほど気にならなかったが、孫が出来ると、特にオイラの場合、娘3人で「撃ち方ヤメ!」だったので、男の孫が出来て、やたら自分の幼少の頃とダブらせて記憶を遡ることが多い。だいたい1週間に1回は娘が孫らを連れてきて夕食を一緒にしている。孫の父親が平常土日出勤なので、遊びながらジージが男としての躾けをしている訳で。だから公園での自転車練習や自然の中での遊び方も教えることも多い。まぁ、孫がまだいない同じ世代もいるが、早く持てといってやりたい。老後の楽しみ、生き甲斐の一つになる。

だから、この数年、まことに少量の写真しかないが、それを参考にして、幼少の頃の記憶を、脳の海馬から引っ張り出している。今の時代はデジカメやビデオでそれこそ、生まれた頃からの記録を溢れるほど撮っているが、オイラの3・4歳ごろの写真なぞ少数しかない。それでも父親が旧式の2眼レフカメラを未婚時代から持っていたので、焼付けサイズは4センチ角と小さいが、他の家庭よりスナップ写真は多いほうだったと思う。

で、その貴重な写真についてだが、なんでも昭和26年(1951年)ごろ、親類が現在で云う出雲市に住んでいて、その家に宿泊をさせてもらっての家族旅行をしたそうだ。ちょうどオイラは3歳過ぎだった。それを幼いころ、話として聞かされた記憶がある。急に具体的に再度ここを訪れてみたいとグーグル・アースを使って鳥瞰画像や連動地図で計画を始めた。昨日の午後からだったが、オイラ的限定なのだが、もの凄いミステリアスな世界に嵌り込んでしまい、解決したのは、その夜の10時頃だった。・・・・・・・

あとから考えれば、「なーんだ」程度な話なのだが、前にも一度、父方祖父は脳溢血が原因で死んだと母親から聞いていたのだが、十数年前に親類に聞いたら、心筋梗塞で死んだのが事実だった。結構、親の話もいい加減なところがあるからね。

で、話を進めると、とりあえず現代の武器、スキャナーで関連するその小さなサイズの写真を解像度1200dpiで取り込み画像ファイル化した。これで標準サイズが大きくなる。全部で10枚くらいあった。そして出雲大社の拝殿の前でのスナップ。恥ずかしいがオイラ3歳の頃。

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そこで、もっと出雲大社について詳しく調べようと、ネット検索をした。

出雲大社wiki

あれれ、どうも拝殿の建物の正面姿(ファサード)がこれと随分違う。

出雲大社にちなんだ画像で見ても、一切この写真のような姿の建物はない。内心焦って来た。

出雲大社 画像検索

Izumo3_3 拝殿(今年まで仮本殿)

1ea36cb3cf25488be21eaf0b9128dd19 拝殿の横にある神楽殿

まず屋根の姿がぜぜんぜん違う。現在の屋根は大切り妻屋根で、正面に全屋根を通す破風板を見せている。昔写真では、入母屋風の屋根なのだ。もしかしたら、出雲大社ではなく、他の大社か神宮なのかもしれないと。そこで出雲に他の神社がないかも調べたが、こんな姿の神社はない。出雲大社話は嘘か間違いか?

そこで、また記憶を辿って行くと、なんでも大きな燈台にその時行ったらしい。そして、オイラは眠くなって、下のベンチで寝て、両親は燈台のところまで階段を上がって景色を見ていたと。

その時の写真なのだが、

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これを、”出雲 燈台”で検索したら、あったのだ。”出雲日御碕燈台”で、日本のみならず世界的にも有名な燈台だった。石造燈台でAランクの保存燈台とある。やはり親子3人でこの出雲に旅をしたのは事実だった。多分夜行列車に揺られて行ったのだろう。

じゃあ、昔の写真の拝殿の姿の違いは何だろう?再度出雲大社のWIKIサイトを良く見たら、明治8年頃作成の絵配置図があった。

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これを観ると、門からすぐに拝殿の建物があるが、なんと姿が昔の写真と良く似ているではないか。4本柱と入母屋屋根と正面小屋根の姿だ。たしかこの出雲大社は60年に一度遷宮といって改修をする。2013年今年遷宮の為の工事が終わって、仮本殿を以前の拝殿に移していたが、また従来の拝殿の戻ったわけだが。2013年の60年前は1953年。その前は1893年だ。オイラが行ったとなっているのは、1951年だ。しかし遷宮ってのは建物の形まで大幅に変えるものなのか?

そこで、ふと今度は”出雲大社 絵葉書”で画像検索してみた。そしたらありました。

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全く昔の写真の拝殿の姿だ。正面の前面に1対の”明かり台?”まであるではないか。まさしく正真正銘の出雲大社の拝殿だった。それでは何時建替えられたのか?出雲大社のホームページを調べてみた。

出雲大社ホームページ

ここでも分からない。

次に”出雲大社 拝殿”で検索してみた。ここに正解があった。

出雲大社:境内・建築案内

現在の拝殿(はいでん)は、昭和34年5月に竣功しました。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。 ※現在は平成の大遷宮中の為、拝殿は御仮殿となっております。ご参拝の皆様は御仮殿にてお参り下さいませ。

昭和28年5月に、荒垣(あらがき)内にあった古い拝殿・鑽火殿(さんかでん)・庁舎(ちょうのや)が不慮の火のために焼亡してしまいました。

当社では、再興の事業に着手し、ただちに高松宮宣仁親王を総裁にいただき、全国の崇敬者の方々の浄財によって、6年後の昭和34年に総工費1億1千万円をかけ、戦後の本格的な木造建築として屈指の規模を誇る新拝殿が竣功しました。

設計は、神社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となっています。屋根は銅版ですが、木曾檜材の木造建築で、建坪485.10平方メ-トル(約147坪)、高さ12.9メ-トルです。

拝殿宇豆柱の礎石は、愛知県の岡崎石(重量13トン)が運ばれ、工事請負は、桃山時代から長く棟梁の家として続いた伊藤平左衛門氏があたられ、拝殿の錺金具も美術的にも価値あるものをとの考えから、東京芸術大学の山脇洋三・若林作司両教授が設計されました。

これで、オイラの出雲大社に関するミステリーが完全の解けました。オイラ家族が訪れ、写真に撮った拝殿は、そのあと2年後、昭和28年(1953年)に火災を起こし全焼して、その後今に繋がる建物に変貌したわけだった。多分当地に行けば、その昔の姿の出雲大社の写真等を見つけることができるのだろう。

空路で羽田から1時間弱で米子空港。そこから出雲大社まで鉄道かレンタカーの計画。また米子空港は水木しげるの作品で縁のある境港の街にある。またそこから隠岐の島にはフェリーで約1時間チョイとか。

米子空港・境港の街・隠岐の島探訪・そして出雲大社・出雲日御碕燈台・出雲の街で、これで道程は決まった。

この歳までなんとか運よく来れたこの自分として、出雲大社に報告と感謝をしに行くことで決定した。まぁ、ムスリム・カソリックの巡礼の旅みたいだが。近々梅雨の合間を狙って行くことにした。そして道中で何か記憶が・・・・・、まぁ、当時と何もかも変わってしまっているので、それはあまり期待出来ないだろうが。

ただ、3歳の頃熱海からはるばる訪れた出雲大社だ。オイラ信仰心という世界にはないが、現在まで再起不能の”悪運”にまみえることなく現在に至っていることに、感謝をするために行くことにしたい。そして、自分の回りも(特に家族)”良い運”でありますようにお願いをしたい。行ってきたらまた記事にします。

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