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2013年6月21日 (金)

3歳のころ行った出雲大社にまた行ってきました。ついでに、境港・松江・隠岐の島にも足跡を付けてきました。

6月8日のこのブログの記事に関連します。

3歳のころ家族で訪れた出雲大社。なんとなくまた訪れたくなったのだが、そこで昨夜ミステリアスな世界に入ってしまった。

ちょうど梅雨の晴れ間を狙って先週土・日を挟んで、島根県の中心地域を周ってきました。目的は、3歳のころ両親に連れられて、熱海からはるばる出雲大社に来た過去の記憶を辿りたいことと、この歳まで悪運に遭遇することなく来れたことの報告と感謝をするためです。

旅程としては、14日発⇒米子空港⇒米子駅前ホテル(東横イン)⇒境港⇒米子同ホテル泊⇒松江駅⇒松江城⇒出雲大社⇒古代出雲歴史博物館⇒出雲日御碕灯台⇒米子同ホテル泊⇒七類港⇒隠岐の島⇒西郷で1時間⇒七類港⇒米子同ホテル泊⇒米子市内周遊⇒皆生温泉⇒米子空港⇒17日着の1人旅でした。当地では、路線鉄道と路線バスの乗り継ぎで、のん気に行動をしました。必ず運転席の傍の席に座り、信号待ちの時運転手さんと質疑応答。

島根県の中心地である、米子・松江・出雲に跨る広大な平地を駆けずってきました。また地方都市の現状としても見てきましたが、比較するとかなり厳しい状態にあるような印象を受けました。

とにかく、広大な平地の中に、宍道湖・中海を抱え、日本海に面して、本土でも地形的には大変恵まれた地域だ。

以下は風土記(奈良時代)に描かれた資料をもとに、当時の地形を再生したもの。画像右側にある、米子から境港(途中米子空港)までの大平地は、昔は中州のような地形だった。これが自然の変化と多分数百年に及ぶ干拓事業により現在のような地形になったのだろう。ここは、電車からの眺めでは、戸建て住宅と大半が畑となっている。

(以下画像をクリックで拡大)

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以下は、現状の地形なのだが、出雲地域の方も、多分干拓が進み、宍道湖が小さくなっている。宍道湖には海水も入っていて、シジミの収穫で有名だ。干拓については、まるでオランダのような。

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太古の昔から日本海に対して、多くの良好な入り江を持ち、特に朝鮮との船での交流が盛んだったのだろう。最近近郊から銅鐸と夥しい数の銅矛(剣)が見つかったそうで、それが博物館に展示され、さらに当時のような金ぴかな矛(剣)が数百も再生展示がされていた。

まさに当時では、本土としては一番輝いていた時代だったのだろう。実際隠岐の島産の黒曜石が、北朝鮮の数ヶ所で見つかっているそうだ。時は弥生時代・古墳時代・奈良時代に掛けてだった。

ところで、ホテルで夜テレビをつけたら、あのテレビ朝日系が一切ない。あの偏向がかった古舘伊知郎の”報道ステーション”や”モーニングバード”を島根の人々は見ていないのだ。なんとなく、島根の人々を好きになった。このままの状態でいて欲しい。

さて、最初に境港に路線鉄道で行った。昨年のNHKの朝ドラマ”ゲゲの女房”で全国に境港が紹介された。もともと作者の水木しげるの生まれた土地にちなんで、この街を鬼太郎一色で町興しを諮っていたとか。あまり妖怪とは関係ない景色・雰囲気な街なのだが。なんでもこれ20年も前からやっている。思い起こすと、当時一村一品運動や町興しブームがよく報道されていた時代だった。よく各地にある青年会議所が音頭をとったものだった。

金曜日の夕方行ったのだが、駅を下りてその水木しげるロードを歩いた、・・・

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歩道には、数え切れないほど妖怪ブロンズ像が立ち並んでいるのだが、まるでミステリーゾーンにでも入ったような。人が誰もいない。まったく閑散として、ほとんどの店が閉まっている。見事なほど人が居ない。夕食を摂ろうとしても店が閉まっている。妖怪ブロンズ像や関連施設を見ると、なにか大儲けしたのは水木プロダクションとブロンズ像制作会社のような気がしてならない。

横道に入ったところに漁師料理”和泉”という店を見つけ、そこのカウンターで板さんと喋りながら飲食をした。ちょうど、”白いか”と”ばい貝”がシーズンで刺身にしてもらい大変旨かった。シーズンになるとマグロが獲れ、大方関東・関西に出荷されるそうだ。値段も当地の2倍・3倍で出されるとか。

次の日は、まず島根県庁のある松江駅で降り、バスで松江城へ。松江城の詳細は省くが、城内に様々な展示物があり、また天守閣まで登ると、4面が開放されていて、すがすがしい風が通り抜けて行く。暑い夏は、殿様は涼みにここに登ったのだろう。

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城から出たら、城の外堀・内堀を周遊する小船があり、それに乗ることにした。中国の蘇州と近郊にある周荘にも、運河を利用してのこのようなものがあり、中国では女性が伝馬漕ぎで、唄も披露してくれた。ここは、男性で船外機付き、まぁ、エンジン音はまこと静かだったが。もちろん、大橋の下で唄をうたってくれた。エコーが効いて更に唄が旨く聴こえた。

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この船で昔の武家屋敷街も見れる。面白かったのは、道中大変低い橋は4ヶ所あって、そこに来ると、上のテントが織り込まれ、お客も同時に姿勢を低く頭を下げ、通り過ぎる。船頭さんの説明を聴きながらの50分でした。

そして、松江駅から出雲市駅に行き、路線バスで出雲大社に向かいました。

当初地図を調べたら、出雲大社前駅というのがあって、この駅に行こうと思ったのですが、調べると、一畑電鉄線でJR松江駅から離れた所にある駅から乗り、宍道湖の北側を周る鉄道だった。しかし昔は、今のJRの系統で、出雲市駅から出雲大社駅というのがあったそうで、その駅は今も見学用に残されていることが分かった。

昭和26年(1951年)に3歳のころ来た時はこの駅を降りたのだった。平成2年にこの線と駅は廃止されたようだ。        旧・JR大社駅

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当時貴婦人と言われた美しい姿のD51(デコイチ)蒸気機関車も置かれている。これに乗って、この駅に両親と降りたのだった。

今年は特に遷宮完了の年、また土曜とあってか、この周辺は賑わっていた。出雲大社の祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)だ。

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面白かったのは、正門をくぐって、本殿に行くのに、一旦道が下がって、また少し上がる地形だった。ほとんど神社というのは、平坦か登りっぱなしが多いのだが。

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そして拝殿に向かう。でオイラが3歳の頃の写真が恥ずかしげもなく登場なのだが。

02_r 今度は父親と一緒のスナップ

Khsaitl_r これは当時の絵はがきからの転写

これ隣にある博物館でも調べたのだが、この当時の旧拝殿の写真が一切展示されていない。これに関してあるブログを見つけた。

「出雲大社拝殿焼失」隠居のつぶやき

昭和28年・1953年の今日、午前一時四〇分頃、島根県にある出雲大社の拝殿・鑽火殿・庁舎が不慮の火のために焼失してしまいました。焼けた拝殿と庁舎は1519年・永正16年に建てられた物でした。  この日行われる予定だった本殿の棟上式を控えて、鑽火殿でモチをつき終って酒を飲んでいたことから、火の不始末が原因と見られています。

歴史ある出雲大社の建物には、実は火災保険が掛けられていませんでした。出雲大社のHPにはその後の再建についてこう記されています。「ただちに高松宮様を総裁にいただき、全国のすうけい崇敬者の方々の浄財によって、六年後の昭和三四年に総工費一億一千万円をかけ、戦後の本格的な木造建築として屈指の規模を誇る新拝殿が竣功しました。」

中略  

この昭和二八年の今日の新聞を見ますと、紙不足から朝刊は六面から多くて八面の仕立で、ラジオ欄は東京でもNHK第一・第二放送の他、民放はラジオ東京・文化放送の二社しか掲載されていません。

しかし、博物館の展示資料にはこの件について言及がなかった。ちょうど前回の遷宮のころの話だ。まるで、上書きするかのように、当時の旧拝殿の写真が何もない。ここからが、オイラの妄想なのだが、出雲大社の遷宮とは、昔の姿を保存しながら、謂わばリモデル、リノベーション(改築)なのだ。で、旧拝殿の建物を良く見ると、神仏混合のような屋根を持った様式に見える。ちょうど遷宮の頃だ。この火災は失火ではなかったのかもしれない。旧様式から本来の本殿に似合う様式に変えようとしたのではないだろうか。旧拝殿を上書きして、新拝殿が建築されたのではなかったか? 火災は放火だった政略的可能性もあるのではないか?

で、大社内では左側にある神楽殿、そして本殿でも参拝しました。報告と感謝をしてきました。この出雲大社は縁結びや良縁に恵まれるということで有名で、神楽殿では結婚式も行われるとか。だから全国の若い男女も多く訪れます。ある言い伝え絵では、天照大御神が、男女の指名を読み上げ、この男女が夫婦となる集いもあったとか。まるでなんとかの合同結婚式のような。とにかく縁結び・良縁の大社なのだ。

これ参考です。

出雲大社の拝礼作法

出雲大社の拝礼作法が、他の神社とは違う「四拍手」であることはよく知られていますが、もっと正確にいいますと「一拝・祈念・二拝・四拍手・一拝」なのです。  

「拝」とは立っている場合は上半身を九十度に折って、頭を下げることをいいます。

<拝礼作法>

一拝 : 深いお辞儀をします

祈念 : 拝と同じように深いお辞儀をして、まず自分が今ここに生きている感謝のこころを捧げます。そして、これから自分の行うことや、心に思っていることを祈念します。

二拝 : 深く二度お辞儀をします。

四拍手 : 静かに両手を胸の高さに伸ばし、四度拍ちます。拍手は真剣な気持ちで、神のおかげを心から感謝し拍たねばなりません。

一拝 : 深いお辞儀をします

この後、大社の横にある古代出雲歴史博物館に行った。ちょうど遷宮を記念した特別展示と常設展示の両方を見学した。約2時間掛けてじっくり見た。本当か幻か、古代の大社の復元模型が展示されていた。

Dscf1382_r これが、古代の出雲大社だそうだ。構造的にあまり長く健在できたか疑問を感じる。

寛文期の頃の出雲大社。旧拝殿も健在だ。

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ここにも説明があるが、中世期からあった仏教色を取り払う意味でも旧拝殿は建て直される運命にあったのでは?それが故意的火災ではなかったか?

それより前の慶長期の頃の出雲大社。かなり違っている。もっと仏教様式が建物にある。

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博物館を出たら雨がやんでいて、うっかり傘立てに傘を忘れてきました。もっと博物館ではゆっくり見学する価値がありましたが、もう一つやはり過去行った日御碕灯台に行くバスの都合で、今度は日御碕灯台行きバスに乗り込みました。といってもお客は3人。で、バスは曲がりくねった道路を走って行き、日御碕神社の前が終点でした。灯台には海岸沿いの小道を登っていかなければならず、帰りのバスは15分後出発。仕方がないので、灯台が見えるところまで行き、写真を撮って戻りました。

Dscf1395_r ここの道を登って灯台の方に行きます。

Dscf1394_r やっと灯台が見えるところまで。ここで折り返しました。当時オイラは眠くなり、この灯台の下で寝ている間に、両親は上の展望台まで上がったとか。

次の日は、七類港からフェリー船で隠岐の島に行きました。ここは大きく分けると島前と島後の二つに分けられ、島前は諸島の集りで中が複雑な入り江となっています。島後は一つの島で、16日の当日は、ここで50キロ・100キロマラソン大会が開かれていたようです。

島後の西郷港で停泊し、その間に水産センターのレストランで、今シーズンの岩カキを堪能しました。記事が長くなりすぎましたので隠岐の島については省略します。

全体として、お客の数・人の数が圧倒的に少なく、よくこれでやっていけるなという感じがしました。しかし7月8月は最盛期だそうで、これからが本番なようです。

これで、オイラの過去を探す旅の話は終わります。

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