続ドイツ:バイエルンの若き国王の見果てぬ夢だったノイ・シュヴァン・シュタイン城とリンダーホーフ城に行きました。日本の安土桃山城なんて・・トホホでした。
ドイツは、いわゆる地方分権の国で、地方(州)の権限が大変強いと云われている。もちろんこれ、これが理想だからそうなったというものではない。歴史的にこのヨーロッパ平原において、おびただしい数の王国、各民族が離合集散し、占領したり、奪還したりの過去があって、一つの民族がバラバラになったり、イロイロな民族が集合したり、また分解したりで、現在でさえ、このドイツでも、地方都市では特有な言語・文化の人々が一緒になってドイツ国民となっているわけで。だから、各州は自治権というか、分権というかその要求は強い。だから始めからドイツ国家の成り立ちとして、地方分権となる宿命だった。これはスペインではもっと強い。スペインで一般に自治州の集りだ。
フランスは日本に似た中央集権国家と云われるが、やはりこれら地方の権利主張を圧制して、地方分権を乗り越え中央集権を優先してきたのではないだろうか。
その結果ドイツは、各大都市は比較的に人口集中に対して平均化されているようだ。ドイツの人口約8,175万人だが、都市人口では、ベルリン約350万人、ハンブルグ約180万人、ミュンヘン約130万人、ケルン約100万人、フランクフルト約66万人、シュトットガルト約60万人・・・・・という具合で、都市への一極集中というのがほとんどない。これはもともと、国土のほとんどが平地で、各都市自由に拡大が出来、大昔から道路網、鉄道網が整備されていて、相互交通が楽だったことも要員としてあるのだろう。
さて、専用バスでディンケルスビュールを14時半に出発、18時にミュンヘン駅北口に到着しました。そこから5分ぐらい歩いてホテルに到着しました。バスが出発してから、しばらくすると・・・・・・・
あたり一面に霧に包まれていきました。これ中国の大平野を走っているときと同じ光景のような気がしました。大平地というのは、山からの影響を受けないので、気流が滞ることが多く、霧のような、スモッグのようなのに包まれてしまうことが多いのだと思う。到着したのは、霧に包まれたミュンヘンの夜のとば口でした。
翌朝は8時発の専用バスに乗って、有名なノイ・シュヴァン・シュタイン城とその近くを観光しました。バス停はミュンヘン駅北口にあり、2台のバスで出発しました。後方バスが、ドイツ語・英語人。前方はそれ以外の言語圏人。バスの中のイヤホーンで各国の言語での観光説明がされます。
オイラのバスの英語ガイドは、”アナ”さんと言う名前のドイツ娘で、元気ハツラツの女性。日本の航空会社の名前に似ているねと言うと、日本人からよく言われるのか、分かっていて、父親がそうなるとは知らず名付けたと笑っていた。ただスペルはANAではなくANNAだそうだ。英語知らずも大勢いるからと、集合時間は玩具の時計を持って説明してくれた。
このツアーは、最初にバイエルン国王ルートヴィッヒ2世が建設した3つの城の内、ただ一つ彼が生前中に完成した城を訪れた。リンダーホーフ城。
城内部も見学しました。なんと説明してよいやら、ベルサイユ宮殿と共通の内部装飾で圧倒されてしまいます。1874年に建築が開始され、1878年に完成された。城から見て池のある庭園の奥は階段状の高台になっていて、この城を見下ろすような設計になっている。
丁度シーズンオフにさしかかり、これから来る激寒な冬に備えて、庭園に数々置かれている彫像は、痛みを避ける為、厳重に箱で囲いがされていた。
ここを後にして、次は名前を忘れたが、ある修道院が、観光施設を経営している村を見学。提携している土産物に連れて行かれたようなものではあるが。しかし、皆新しく観光整備された村で、南ドイツの売りである、外壁に絵が描かれ家も再現されていた。
さて、次にバスはさらに登り、目的のノイ・シュヴァン・シュタイン城の下にある大駐車場に着いた。ここからは、徒歩で登るか、別の専用バスで登るか、馬車で登るかになる。軽くビストロで軽食を買い、食べるところがないので、ちゃっかりカフェテラスに座って食べ始めたら、そこのウェイトレスのオバサンに追い払われた。ベンチがなく歩道にあった土手の岩の上で食べた。
バスを選択して、城への途中の駐車場で降ろされ、そこからさらに歩く。
途中に道が二つに別れ、登る方はやがて、この城が最高に良く見えるつり橋(マリエン橋)に行く。このつり橋も当時造られたものだとか。当初は木造で後に鉄骨造のつり橋になったとか。
真下を見ると、絶壁で尻がムズムズしてくるほど。皆ムズムズしていただろう。
そして、あのディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったとか云われる、ノイ・シュヴァン・シュタイン城を眼下に納めた。丁度一部の外壁が改修中で全容を見ることはできなかったが、さすがのものであった。
つり橋への道の別れ道にもどって、今度は城見学用のやや下り道を進んだ。途中眼下を見下ろす広場に出た。まさに特級の”絵に描いたような景観”だった。
ここは、云わばヨーロッパ大平野の終わりで、山岳地域への分岐点の地域。周囲は高い山々が迫っている。ルートヴィッヒ2世はこの景観にも魅了されて、ここに城を造ろうと決めたのだろう。
城への入場は、チケットを入り口前で購入。そのチケットに入場時間が記入されていて、自動改札だが、その指定された時間にならないと、入場できない。
それまでは、周辺をブラブラすることになる。城内部は、これまたベルサイユ宮殿を参考にして、いやそれに負けないくらいの絢爛豪華な内装、装飾、工芸、調度品だった。1869年(24歳)に建設が開始され、1886年(41歳)になんとか居住できる程度になり、国王はミュンヘンに帰らずここに住むようになったが、その期間は僅か102日で、あまりにも莫大な費用を惜しげもなく投下したため負債が大きくなり、また精神病との決め付けをされ、禁治産者の扱いを受け、ベルグ城に軟禁され翌朝主治医と共に、そこの湖畔で謎の死を遂げたそうだ。そして、この城は1886年の時点では、未完成のまま工事は中止され、城と内部が一般公開をされた。長い時間を経て、それ以後残りの工事が国によって施行され、こんにちの存在になっている。
で、このバイエルン国王であったルートヴィヒ2世だが、彼の人生は大変興味が湧いた。日本でも、巷では、旅館・ホテルの若旦那を指して”女道楽””博打道楽”色いろあるが、最悪なのが”建築道楽”との戒めがある。これにのめり込むと、途方もない借金を膨らませることもあり、最悪破産の事態も招きかねない。で、このルートヴィッヒ2世はまさに建築道楽では世界一とも云える人物だったようで。詳しくはルートヴィヒ2世 (バイエルン王)。
ルートヴィッヒ2世とノイ・シュヴァン・シュタイン城
以下は現地の土産物店で購入した29.9€のDVDからなのだが。
1845年に誕生して幼いころ、父親ルートヴィッヒ1世に大変厳しく育てられ、また侍従に育てられ、真の両親からの愛情はあまり受けなかったようで。また成人しても長身(192cm)でイケメンで当時の女性の憧れだったのに、恋愛には一切興味がないのか、独身で生涯を閉じた。
2人兄弟で弟はオットーという名であったが、成人後しばらく経って精神病を患ったとか。
16歳のころ、ミュンヘンで、ワーグナーの歌劇(オペラ)に感動してその世界にどんどん入っていった。やがて大学で様々学ぶが、このワグナーの世界にから抜けることは出来なかった。
ところが、在学中に父親が亡くなり、跡継ぎの為、急遽バイエルン国王として、ルートヴィッヒ2世となった。執務はしたが、大半の公務は内閣や行政官などに任せ、当時は人気が落ち、貧困になっていた リヒャルト・ワーグナーを探させ、自分のお抱えの歌劇師とし、彼のパトロンとなった。彼に対する尊敬と情愛は異常なほどだったらしい。
リヒャルト・ワーグナー 云わば彼の思うがままに操られたと疑われるほどだった。彼は、国王に資金を出させ、念願の歌劇劇場を自分の理想通り建設した。だが、やがて女癖の悪かったワーグナーはスキャンダルを起こし、それに幻滅したのか、国王は彼から去ることになる。
あれだけのイケメンだった国王も青年期を過ぎると太りはじめ、普通の男性の容姿となっていった。まぁ、誰しもこの道を辿るもの。なるべく自分の姿絵を置かせなかったと。オイラもそうで、このごろは写真を撮られることが厭になっている(苦笑)気持ちが分かる。
そして、国王は、昔からの廃墟となっていたこの場所に、騎士道に沿った最高の美しい城を建てることを決めた。雇った専門家の劇場絵師に数々のスケッチをさせ、それを建築家に設計図として作らせ、建築画家や工芸家などを集め、フランスのベルサイユ宮殿に自分共々行かせ、また駐在させて、徹底的に研究と参考にさせた。それゆえ、内部の各部屋は、ほとんどがベルサイユ宮殿と見間違えるような内装・調度だった。もちろん彼独自の世界も織り込ませた。(カメラ禁止で内部は撮ることが出来ず)
劇場絵師に描かせた完成図のパース。内部もこれら劇場絵師が描いた。それを実現させるべく建築家が本格的に設計をした。
1869年に建設が開始された。
建設には、当時蒸気機関の工事用昇降機も使われたそうだ。その時の記録が残っていて、使われた基本資材として、大理石465t、砂岩1550t、セメント600t、瓦40万枚、仮設用木材2,000立米だったそうだ。
城はまだ未完成であったが1886年ごろになって、他に2つの城やその他数々の別荘などの建設などで、彼を気に入っていたプロイセンのビスマルク(やがてドイツ帝国の宰相)から莫大な援助を受けていたとは云え、バイエルン国の財政は窮乏し、債権も破綻状態に。国王自体もかなりパラノイヤ(偏執病)の兆候が見られるようになり、ビスマルクも援助を切ってしまった。そこで、内閣は、彼を病名パラノイヤとしてベルグ城に軟禁隔離したところで、翌朝主治医と一緒に謎の死を遂げて、彼の一生は終わった。未完成のなか僅か102日間しか居住せず、現在の完成を見ることなく、彼にとっては”見果てぬ夢の城”だった。
ただ、城としての機能を持たず、彼の趣味の想像と幻想の中で造られたこの城は、世界でも有数の美しい城として、今日も世界中から訪れる観光客を魅了している。
以下Youtubeより
国王ルートヴィッヒ2世と一心同体だった、作曲家・歌劇演出家ワーグナーの曲です。
ルートヴィッヒ2世が建設した城
ノイシュヴァンシュタイン城
(未完成)
リンダーホーフ城(完成)
ヘレンキームゼー城
(未完成)
ファルケンシュタイン城(構想のみ)
ルートヴィッヒ2世が愛したワーグナー作品
ローエングリン
タンホイザー
季節がら黄葉の季節で、紅葉ではありません。フランス・ドイツの、ほとんどの枯葉は、イチョウのように黄色い枯葉が多く、日本のようなナナカマド、ハゼの木、モミジなどの真っ赤な枯葉がなく、僅かにツタ種に赤い枯葉程度でした。景観としたら、日本の紅葉の方が最高だと感じた次第でした。
そんなこんなの1日旅行でした。19時にミュウヘンに戻りました。次は最後として、ミュンヘンについてです。
次記事に続く。
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