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2012年11月 3日 (土)

続ドイツ:ローテンブルグは、観光イノチの街だった。そこで非日常空間をのんびり楽しめた。

午前10時にヴェルツブルグから専用バスで、12時にローデンブルグに到着した。このバスは1日1本しかないので、乗り遅れるととんでもないことになる。出発時刻の20分前には、バス停に到着するようにしていた。外国の地ではこの慎重さは重要だ。またどこにバス停があるのか、事前に確認を怠ってはいけない。パリでもドイツでも、観光地であっても、英語表示は期待が出来ない。その点日本は、少なくても英語表示は多いので親切だと思う。

目的地に近づくと、イヤーホンで日本語(選択で)で、その地の簡単な説明を聞くことが出来る。同乗者は日本人のジジババも多い。シーズンオフに差し掛かっているので、団体が居れば、60%ぐらい埋まるが、そうでないときは40~30%ぐらいしかいない。日本人の親子と車内で会話した。なんでも娘がイギリス留学の経験があり、母親と一緒に行動しているのだが、後半は娘はイギリスに行動、母親は1人で行動をするとか。まぁ、その母親は不安げな話をしていたが、旅なれているようだから心配はないだろう。

日本人団体旅行客とも多く出会ったが、10月ということでほとんどがジジババだ。出元を聞くと、島根県やら高知県、鹿児島県、愛知県など様々な地域から来ていて(JTBとか)、関東地域からというのは出会わなかった。小ガネ・大ガネを持っているジジババは、日本では節約して、海外ではせっせと出費しているのだろ。まぁ、バブルの頃の日本人旅行者のように、大盤振る舞いで消費はしていないようだ。賢くなったのだろう。団体の場合、日本人添乗員がいるのだが、オイラが軽く尋ねても、添乗員は冷たくあしらう。まぁ、当たり前かもしれないが。仕事の範囲外だからね。

で、ローテンブルグについてなのだが・・・・・・

正確には、ローテンブルグ・オプ・ディア・タウバーというらしい。面白いことに、ドイツの地名や、ホテル・レストランなどの正式名称がどれもこれもやたらに長いこと。落語の「寿限無じゅげむ」のような。タウバー河の沿岸の丘の上の街と云える。

人口1万1千人を少し超える規模の観光古都だ。この丘の上にある街は少なくとも970年ごろを発祥としているようで、それ以後国王の支配やら代々代わり、その都度要塞や宮殿、教会などが創られていった。とてもオイラの頭では把握できないほどの支配の流れがあり、1350年には皇帝から徴税権と関税権が認められ、このころから帝国自由都市として認められるようになった。

地震がないドイツと思っていたら、1356年にこの地域は地震に見舞われ、半径200kmが被災して、それまでの城壁など多くが崩壊したことがあったそうだ。これ”バーゼル地震”と云われている。最近この地震はM6.5クラスだったと結論がでている。そういえば近くには、”バーデン・バーデン”という温泉で有名な地域もあり、温泉とマグマの関係からすれば、決して地震とは無縁な地域ではない。1000年単位では地震が起こりえる地域だ。

まぁ、その後も反乱やペストの流行、フランスによる占領、再建などなど、詳細を述べれば1冊の本になるくらいの変遷を経てきた。まったくの廃墟の街になったこともある。当時ドイツの勢力下というほどではなく、様々な勢力下にあったわけだが、ドイツ連邦下に入り(1813年)、やがてドイツ帝国下に入っていく。1880年代には、鉄道が開通した結果、イギリス・フランスからも人気のある観光地に成長していった。そして、そのころから、街並みに大きな変更を加えることを禁止する法律が作られた。街並みの時間よ、止まれってやつだ。

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↑1648年ごろのローテンブルグ

大戦末期1945年3月にアメリカ軍は本来の目的地が、霧に包まれていて攻撃が出来ないので、戦略的に意味のないこの街を空襲爆撃をして、かなりの建物が崩壊したが、その場所が旧市街地でも比較的に新しい地域だったので、最も重要な記念建物は被害を免れたそうだ。

やはり、破壊以前の姿に、街の建物は修復され、欧州の国々・世界の国々から観光地として大変人気があり、常にシーズン中は多くの観光客が訪れる。

旧市街地は、面積41k㎡ぐらいで、数時間で市壁を回れるというコンパクトな範囲だ。丘の上の街といっても周囲は大平原。敵から守る為周囲には、城壁が巡らされている。市壁と云われているそうだが。

Dscf0581_r 人ひとり通れる回廊があり、外に向かっては、戦闘用の小窓が設けられている。

Dscf0585_r こんなに高い場所もある。また途中には幾つもの塔があり、そこには登り下りできる粗末な階段が設けれれている。現在は途中途中で寸切れている場所もある。

まぁ、平原とすれば、このような外壁で内部の街を守ることしか手段が無かったのだろう。この地域の古都は、ほとんどこのような外壁で守られている。この世界最大級が中国の万里の長城ということになる。

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↑建物の標準的なファサードはこのようなものがほとんど。1階が積石造で2階以上が大サイズの木材を使った、木造軸組み工法となっている。2階まで積石造のもあったが、稀だったようだ。

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ここが、街の中心の広場。マルクト広場と云われている。旧市庁舎のあったところで、周りを取り囲むように、レストラン、カフェテラス、土産物店があり、とくに土産物店の中には、なぜかテディー・ベアー専門店(伊豆高原にもあり)、クリスマス飾りの専門店などが有名らしい。とくにクリスマス博物館の店は、もの凄い量の商品が陳列してあり、まさに世界中のクリスマス・コレクションを集めたようだった。

この広場にあったレストランで夕食を摂ったのだが、ここだけなんと日本語メニューを用意していた。すかさず、諸物価の調査と料理の種類がどのようなものか記録に残すべく、カメラに撮った。ご参考に!

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Dscf0559_r 因みに1品料理は量として、日本の1.5倍ぐらいある。まこと、体格の差が料理の量に現れていて、分かり易い。

で、この旧市庁舎は上がれるようになっていて、ミュージアムになっている。そして最終的には、この塔のてっぺんに登ることが出来る。狭い階段を登りつめると、最上部には太ったオバサン(公務員)が、券売をしていた。200円ぐらいだったが。このオバサンに、毎日ここへ登って来るのですか?と聞いたら、1日置きだとか、にこやかに言った。あの体形だと大変じゃないかと思う程ハードだった。で、鉄網床の狭い外部にやっと出て、この街を眼下に眺めた。

Dscf0595_rここから、ヘッピリ腰で手すりに掴まりながら・・・・・

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右下画像の真ん中辺に横一筋に市壁が見える。その外は新興住宅街となっている。屋根は法令でこの赤茶色のようなコロニアル葺きに統一されている。20年前後前に西伊豆のある町が、観光お輿しで、町の建物の屋根をオレンジ色を指定して条例で定め、ある程度町の建物は統一しかかったが、市長が変わるとその条例は撤廃され、その意思はもろくも崩れてしまった。古い歴史の裏付けがないと、民主主義の中では無理があるということなのか。

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この屋根材に注目してみる。勾配は、ほとんど45度(10寸勾配)で統一。調べると、ドイツ特有の焼成瓦で、プレイン・タイル(Plain Tiles)と云われているそうだ。そしてこの形状はゴシックという種類のようだ。これで統一されている。右画像は裏側から撮ったもの。横垂木(タルキ)に引っ掛ける工法だ。釉薬を掛けていなく素焼きなので、年月とともに、コケや色カビが発生する。左画像では汚れているように見えるが、これを遠目で見ると、斑な色合いになり、古き重みのある景観をつくることになる。形状はまったく違うが、スペイン瓦も本場では、素焼きで、やはり斑な色彩景観になることを楽しんでいる。

ここでは、他に中世犯罪博物館というのがあって、行ってみた。中世後期から、19世紀に至るまでの法律の発展過程を展示している。日本語での解説も英語と同じようにあった。

Dscf0568_rこれ一部の解説展示なのだが、法律関係の人には興味が湧くと思う。訴訟手続きの開始、公開裁判、判決に至るまで、刑の執行、拷問などの解説があった。法治国家のドイツの開示であって、これらを日本も参考にしたのだろう。

そして、当時の拷問の道具が、これでもかというぐらい展示されていた。日本でも同じようなものはあったが、種類がもっと多くある。特にペスト流行の原因となったのは魔女だということで、多くの女性が魔女と扱われ、拷問や処刑をされた。その時使われた道具も多くあった。

まぁ、欧州にしろ中国にしろ、太古からの歴史は凄惨な、残虐な歴史とともにあり、平和とはコインの裏表を為して来た。日本の拷問なんて可愛いものだとも云える。現実の人間社会の残虐性などまるでオツムにないような、お花畑の福島瑞穂に見せてあげたい。彼女が終いに言う「話し合いをするぞ!議論をするぞ!」なんてものは悪意を持った国には無力である事が解る。いくつか写真を撮ってきたが、それは控える。

ここは歴史的に観光命(イノチ)で来たので、観光客を飽きさせないようになのか、多くの名所やミュージアム、古教会があり、それら一部を観てきた。タウバー河沿いに大きい水車もあるようだったが、時間の都合で諦めた。

ここに滞在したホテルの部屋には、やっとエアコンが付いていた。その他のホテルでは皆無だった(大規模ホテルは除いて)。多分夏一時的でも猛暑になった時用だろう。但しエアコンを使う時には、別料金をお願いしますと案内があった。電気料金が営業的に高いのかもしれない。客室のある階の廊下は、夜通るお客は廊下は消灯しているので、分かり易いがスイッチをオンにしながら歩くことが多い。さもなくば、人間探知装置でそのときだけ明るくなる廊下というのもあった。

で、次の日、午前中この街を再度ブラブラして、1時に専用バスに乗って、デインケルスピュールと言う舌を噛みそうな街に向かった。

次記事に続く。

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