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2011年11月30日 (水)

23年ぶりのシンガポール。建設バブルを思わせる発展ぶりに驚きました。

しばらく記事の更新が休止していました。以前の記事で触れましたように、所要でシンガポールに行っていました。

何かとアセアン(東南アジア諸国連合)の中で常に話題になる国です。現在もTPP協定問題で、その発端となった4P、モトイ!P4協定の4カ国の一つでもあります。アセアン各国の云わば”ヘソ”のような位置にあり、貿易の基点となっている国。そして歴史的、宿命的な多民族国家の代表とも云える国がこのシンガポールです。近年目覚しい経済発展を遂げています。

オイラ、23年前に家族旅行で、マレーシアのペナン島に旅行した際、帰りにこのシンガポールに2泊したことがありました。もちろん格安のツアー旅行でしたが。今回はそれ以来です。その頃はまだこれから発展開始といったところで、超高層ビルも一つだけ。宿泊は偶然というか、その超高層のホテル(スイソテル・ザ・スタンフォード)に宿泊した。夜、その最上階70階にあるバーラウンジから眺めると、どの方向なのか分からないが、低層の市街地が闇に続き、ところどころ”KONICA”の電光看板だけが、いくつか寂しく見えたのを覚えている。

また海を挟んだセントーサ島にも、ロープウェイで渡ったが、着いたところ周囲が公園になっていて、それほどビックリするような施設は無かった。それが今や、全島的に開発され、ユニバーサル・スタジオやリゾート・ワールドなどテーマリゾート施設など全開となっていた。「たった二十数年でここまで変貌するかよ!」と驚いてしまった。・・・・・・・

今回、オイラの友人の友人が、現地に暮らしていて、時間が空いている限り付き合ってくれるというラッキーさもあり、シンガポールの内情も調べてきました。オイラ図々しいので、友達の友達はすぐ、自分の友達と勝手にしてしまう癖がある。滞在中の内、3日間は彼の車で各所を案内をしてもらった。食事もご馳走してもらったりで、至れり尽せりでした。ありがとうございました。

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その彼、Fさんは、若い頃、大手会社で貿易部門を担当していて、シンガポールにも25年ほど前に滞在、やがてシンガポール人の女性と結婚し、とりあえず日本で所帯を持ったが、その後、会社を退職し、やがて自分で会社を持ちシンガポールを拠点として、日本企業の海外進出とアセアン各国現地との調整的な仕事をしている。そして11年前に、シンガポール人の奥さんの名義でHDB(Housing Development Board):公団住宅を購入して、2人の子供と4人家族で生活している。

HDB(公団住宅)について

このHDBは、嘗ての首相リー・クアンユーの政策の賜物とも云えるかもしれない。シンガポールの土地は全て国家の所有として、国民には土地の所有権はない。あるのは99年間の土地利用権のみだ。そこで、国家が公団住居として高層共同住宅ビルを建て、それを国民に各戸を売却をする。建設費と雑費のみの価格だから、大変安い価格での分譲となる。まず郊外から建て始め、合わせて地下鉄網を張り巡らせ、各駅から遠い地域から建設していく。駅前に広大な芝生の広場があるので、このFさんに聞いたら、周辺から住居を増やして行き、十分に定住人口が増えてきたら、政府が又は民間に投資させ、本格的な駅前商業ビルを建てる戦略をもっているとのこと。

これ以外に住宅としては、民間が造る”コンドミアム”というのがあり、これはシンガポール人でなくても分譲が可能らしい。HDBが機能性優先な住宅ビルに対して、このコンドミニアムは、様々な工夫を凝らしたデザインの住宅ビル。しかし価格は比べて2倍以上と高額となる。

しかし、このHDBの公団住宅も近年値上がりをしてきて、新築3LDK:110㎡では、平均20万シンガポールドル(以後S$とする)。実態為替1S$=65円計算で、1,300万円の相場だ。但しこれ中国も同じだが、この分譲については、内装工事はされていなく、内部は躯体むき出しのまま。これを購入して、購入者は内装工事を行なう。結局日本的に見れば、全て内装完了で、全価格としては、30万S$(約2,000万円)前後となる。

面白いことには、最近は中心部の開発が次々進み、グレードの高い施設もどんどん増えてきたことから、中心部に近い中古のHDBは、現在の新築より数段高額となっているという、不動産バブルの最中だそうだ。もちろんデザイン・高仕様のコンドミニアムはクレージーな程の高額な分譲価格となっている。1戸当たり数億円、数十億円の世界だそうだ。

一般庶民で住宅を持っている人の最低の月平均所得は500S$~600S$(3.5万円/月前後)だそうだ。また、それぞれ家族名義で購入して、それらの内を賃貸で貸す家族もあるそうで、賃貸の場合には、平均相場で月の家賃が700S$~1,000S$(45,000~65,000円)程度だそうだ。賃貸は外国人でも借りることが出来る。

シンガポール国民の約80%は、このHDBに住んでいるそうだ。しかし、外部にオープンなバルコニーは大変狭く、洗濯物は、横ではなく外部に突き出すように洗濯竿で干している住戸が多い。ナポリと似ている風景がある。また一般にシンガポール人は、湯に漬かる習慣がないそうで、バスタブはほとんどなく、シャワーブースのみがほとんど。因みにオイラが宿泊したホテルも四星ホテルなのに、バスタブはなく、シャワーブースだった。

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またHDBの1階に関しては、ほとんどが各種店舗となっていて、”ホーカーズ”と云って各種食事や惣菜として買える店もあり、大変便利となっている。

特筆すべきは、このHDBには、多民族国家として1棟の建物に、同じ民族だけ住まないように、民族人口比例に沿って、偏らないようにしていることだ。例えば華人100%の棟はなく、1棟の中に、華人・マレー人・インド人などが比例混在していることになる。その点をFさんに、それで皆仲良く交流しているのかと聞いたら、そのようなことはあまりないとのことだった。その地域としても、各民族は別々の社会を維持しているようだ。まぁ、それでもその様な配慮は、しないよりしたほうが良いということだろう。

シンガポール島は、面積としては東京山の手線内程の面積で、洪積層という大変硬い地盤となっているので、高層の建物でも基礎工事はそれほど高額工事とはならない。まして地震というものが、有史以来ないそうだ。大型台風もここには来ないという大変ラッキーな地域なのだ。

シンガポールの簡単な歴史

滞在中、国立博物館を訪れたのだが、そこにはこんにちまでのシンガポールの歴史を映像や展示物を観ながら、イヤーホーンで日本語解説を聞きながら、その流れを掴むことが出来た。入場開始の初っ端に、ここで見つかった石版が展示されていた。それには、文字が彫られていて、それが未だに解読出来ないそうだ。アルファベットのような、いや全然違う古代文字だそうだ。

全く簡単に歴史を語れば、マレー半島の南端に位置するこの島は、昔から海上交通の要所として栄え、1400年ごろマラッカ王国の支配下になった。シンガプラ(ライオンの町)がその頃の名前で、今のシンガポールの前名称となっている。

しかし、1500年頃このマラッカ王国はポルトガルに攻め込まれ滅亡してしまった。豪族・商人達は、南端のこのシンガプラに逃げ込んだが、やがて1600年にはここをもポルトガルに侵略され、多くが虐殺され町は壊滅状態にされてしまった。そしてそれから300年間、表舞台から消え、漁師と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となった。

やがて、1819年に人口150人程度になってしまったこの島に、英国東インド会社のトーマス・ラッフルズが上陸してこの地の重要性に着目し、当時島を支配していたジョホール王国より、商館建設の許可を取りつけ、都市計画を進めて行った。1824年にはジョホール王国から、植民地として正式に割譲された。また名称も以前からのシンガプラではなく、シンガポールという名称に変更した。

その後、無関税の自由貿易港として栄え、周辺の中国人やインド人・マレー人が労働者として流入して、人口もみるみる内に増え、周辺国、欧州との三角貿易で発展していった。しかし隣のマレー人などの従来からの住民や移民には自治は認められず、隷属状態が続いて1900年代になっていった。英国に対する民衆の不満も高まっていった。それに対して英国は反乱分子を投獄や処刑などで徹底的に抑えていった。

そして、1942年2月7日に、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けた。同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏し、同年2月15日に終わった。その後、日本軍の占領下となり、名前も「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。昭南島とは「昭和の時代に得た南の島」の意とされている。

結局1945年8月の日本降伏でまた独立することなく、英国の植民地として戻ることになった。しかしマレー人としては、長年宗主国として偉ぶっていた英国が同じアジアの日本人にいとも簡単に降伏してシンガポールを見捨てて逃げてしまったのは何なんだい!と本格的に独立運動が盛り上がり、その結果1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任する。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成する。

しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化。1964年7月21日には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、人種暴動が発生、死傷者が生じる。

さらに、1963年の選挙において、マレーシア政府与党のUMNOとシンガポールのPAPの間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されたことにより、関係が悪化してしまう。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立した。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流した。これは悔し涙、情けない涙だった。

つまり、シンガポールは自ら独立を勝ち取ったのではなく、マレーシア連邦から追い出されたのが、こんにちのシンガポールの発展の出発点となったわけだ。「人間万事塞翁が馬」を絵に描いたような国家成り立ちとも云える。しかも独立国家としては、1965年はオイラが高校生のころだから、まだ46年しか経っていない若い国家なのだ

山の手線内と同じほどの面積に、人口約500万人。人口密度はモナコの次の世界第2位、農業がなくほとんどの農産物は輸入。水道もお隣のマレーシアから3本の水道管で繫がっていて、2本は輸入水、1本は浄化してマレーシアに輸出。だから水道代は多少高い。大きな工場はなく、産業も軽産業のみ。海上貿易の中継点として、また金融業の中心地、そしてこれから重点課題としているのが観光業だ。

名目GDP(国内総生産)では、2011年予測値として、約3,300億S$(約21兆円)と高度経済成長をしている。

(クリックで大)

Kyaht

さて、シンガポールについて、記事が長くなりましたから、続きは次回記事にします。あれこれ見たり、聞いたりしたことを記事にまとめます。

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