原爆記念日。広島・長崎に想う。あなたは、どのような殺され方がいいですか?
今日は、不動産の登記簿を取りに法務局に車で行ってきたのだが、外は暑かったねー。なんでもこの暑さは、お盆入り前までで、それ以後は涼しくなると気象庁は発表しているが、その通りになるのかどうなのか。天気予報も地震予報も気象庁は外すことが多いからね。米国の40℃前後の灼熱地獄も1週間で済んだようで、現在はニューヨークは30℃、ロス、シカゴ、ボストンなど、28℃ぐらいまで涼しくなっている。
10日の衆院財務金融委員会で、自民党の野田毅の質問に、菅チョクトは、はっきり月内に退陣を明言したそうだ。特例公債法案可決後だと。再生エネルギー法案をこれも条件になんて粘っているがとんでもない。この法案は、今後の日本のエネルギー政策を左右する。退陣の条件になんてとんでもない話だ。
現在の原発事故の徹底検証が終わってから慎重に審議すべきものだろう。またこのいきさつは、在日からの献金もらいバレと、極左への不適切献金あげの騒ぎが大きくなってきてしまって、逃げ場がなくなってきたからか?選挙のためのマネーロンダリング事件に発展するからね。まさかこれを消すための条件は入っていないと思うが。菅が辞めてこれら騒ぎが屁のように消えていったら、与野党で手打ちがあったと思うべきだろう。
さて本題。
6日の広島、9日の長崎、原爆犠牲者慰霊式と平和祈念式が終わった。オイラこの両式典には、あまり興味がない。昔から左系勢力のアピールの場としてあまりにも利用されてきたという印象が多すぎる。これにケチをつけることはタブーな言語空間なのだが。新聞・テレビではケチをつけることなぞ出来ないが、個人のブログだからこそ、ケチを付けられる。・・・
昔から、この広島・長崎のこれらセレモニーは、左系勢力の政治アピールの場だった。当初は原水協(原水爆禁止日本協議会)があったのだが、主流だった日本共産党と揉めて、日本社会党らは、そこから飛び出し、新たに原水禁(原水爆禁止国民会議)というのを作り、お互い対立しあいながら、反核・反戦運動を進めてきた。まぁ、原爆被害者を利用してのイデオロギー闘争をしてきたわけだ。
だから、自由主義陣営の核実験には、狂ったように糾弾するが、ソ連や中国の核実験には、ほとんど何も言わない。最近も北朝鮮の核実験には糾弾はしない。まったくステレオタイプなのだ。一時はソ連・中国の核実験は「キレイな原爆」なんて皮肉を云われたことがある。まさに東西冷戦の頃から、この広島・長崎のこの日は、左系勢力の政治アピールの年中行事だった。
”平和宣言”といって、平和が水戸黄門の印籠みたいなもので、ここから反戦運動、護憲運動が生まれていった。平和さえ唱えれば、世界は平和になると。しかしどうだったのだろう。一向に平和にはならない。核保有国はどんどん増えている。
それでも一昨年、オバマがプラハで核爆弾廃絶を宣言したと、広島の秋葉忠利元市長は、長年のこの平和運動が報われた。世界の核廃絶が始まったと自画自賛だったが、あれは、オバマの本音としては、ロシア・米国それぞれ競い合っての核爆弾の在庫が数千発もあり、その管理に莫大な手間とカネが掛かるから、両国同時で、在庫の数を減らしましょうということで、両国、そして中国も核爆弾をなくそうなどということは、微塵も考えていないことが後に分かった。いかに平和、平和唱和のお花畑だったかだ。
広島は、6日のリトルボーイ投下で、即死も含めてその年の12月までに、9万人~12万人が死亡した。長崎は、9日のファットマン投下で、12月までに7万数千人が死亡した。多くの記録写真が残っていて、それは見るたびに心が痛む。またそれを語り継ぐ”語り部”の人々が、訪れた人々にその凄まじい光景を教えてくれる。
膨大な数の被爆者が発生して、それら人々は”被爆者手帳”をもらい、特別に医療費免除や補助を国家から受けてきた。放射能に依る影響での追跡調査で、66年間もあるのは、一般人で膨大な人数というのは、この調査しかないそうだ。”黒い雨”とか”はだしのケン”とかの映画は、これら後遺症の問題を扱っていた。オイラ、これらの人々は放射能の影響で、早々に死んでしまうのか、恐ろしいものだと当時感じたものだ。また広島、長崎には今後数十年草木も生えないとも聞いた。しかしこれはデマ(嘘)だった。恐怖を伝えるため、誇大に煽っていたのだろう。
ほとんどの”語り部”と云われる人達は、爆心地から数キロのところにいて、幸い遮蔽物のお陰で直撃を避けられたと。しかし、その後かなり長くその地にいたので、完全に被爆していた。しかし、その被爆量は何シーベルトかは分からない。精密・正確に調べる計器なぞ、一般には普及はしていなかった。
その後、テレビのドキュメンタリーで知ることになるが、その人達かなりの年齢になっても、見掛け健康そうなのだ。最近亡くなった”語り部”なる人は92歳だと。フランスの番組で話題になったのは、運悪く広島で被爆して3日後、また長崎でも被爆して、その後90数歳で最近亡くなった人をからかったことが問題になったが。しかし普通なら、何かおかしいと思うだろう。被爆しているのに、なぜあんなに元気で長寿で生きられたのか。寿命60歳以上ということに限っても、相当多くの被爆者がいた。追跡調査をしてきた放射線医療の関係者は、放射線被爆と健康、そして寿命について詳細なデーター分析から実態を公表してほしい。今回の福島原発の重要な参考資料となるからね。
広島は川の中州に、丹下健三の設計で、平和祈念公園が設けられていて、年間そこを訪れる人も多い。皆その展示物や語り部の話、全体の空間、背後に見える原爆ドームなどなどで、平和の尊さを再度感じることになる。しかし、その心を弄ぶかのように、政治的プロパガンダの跋扈に利用されてきたことに不愉快さを感じるのだ。悲劇は広島・長崎だけのものではない。
東京では、1944年11月14日以降106回の空襲を受けた。1945年からは、3月10日(最大)、4月13日、4月15日、5月25日は特に大空襲だった。焼夷弾によって死者・行方不明者10万人。毎回、恐怖の中逃げ惑い、そして焼き殺された。数は少ないが、大阪・名古屋・横浜・神戸などほとんどの小都市もやられた。その数は数万人の犠牲者だ。沖縄、サイパン、などの島々も多くの一般人が犠牲になった。
オイラ、どうせ殺されるなら、原爆で一瞬に蒸発するように殺されたい。東京の空襲のように、まるでいつ死刑執行がされるのか分からないなかで逃げ惑い(106回も)、そして焼き殺されるなんてゴメンだよ。南洋の島々の悲劇、沖縄の悲劇で惨殺されるより、原爆の方を選ぶよ。まして自分だけではなく、子供、孫らの家族の惨殺を見せられるのは、自分の死より恐ろしい。中国の地においては、もっと言葉を絶するような残虐な殺され方をしたそうだ。
広島・長崎からの反核運動も結構だ。しかし人類は核爆弾というものを開発してしまった。パンドラの箱を開けてしまって、もう元には戻れないのが現実だ。考え方によっては、もし原爆というものが、開発されなかったら、また世界大戦クラスの戦争は起こっていただろう。米国陣営Vsソ連陣営で。あの時以後、世界中で核抑止力は働いていて、それがあるから、小戦争が起こっても、それ以上拡大しなかったのも事実だろう。今も小戦争は各地で起こっている。限度を超えて拡大しないのは、これ原爆のお陰とも云える。
人間社会というのは、素晴らしい反面、どうしようもない邪悪を持っている。お互い殺しあわなければならない局面というのは、人類発祥のころから、現在まで続いている。自分の家族を幸せにしたいことから出発して、やがて殺し合いの戦争まで行ってしまうロードマップが人間社会には存在する。
だから、広島・長崎の平和宣言のように、核爆弾がなくなれば平和になるとか、主語のない「二度と過ちは繰り返しません」というものが、オイラには”お花畑宣言”に感じてしまうのだ。
一粒で二度おいしいオイラのブログ: 今日の画像
戦争の被害者の痛ましい写真は数多くあるが
この写真も、心をえぐるほどの写真だ。
胸が苦しくなってしまう。
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネル
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の 報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。 佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の 中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。 弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は 当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の 様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼 き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも 裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目 を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠 っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。 少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。 白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで いる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持 つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま した。 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。 それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な 夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を 赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる 少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、 ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が 静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を 去っていきました。(インタビュー・上田勢子)
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コメント
この子は、兄としての責任と人間としての義務を、
ただ自然に果たしたのでしょう。唇を噛みしめて。
愛しい妹か弟だったのでしょう。
ここに、現在の日本人が、もう忘れてしまった何かを
感じます。
このような少年達がやがて立ち上がって、
この日本を支えてきたような気がします。
投稿: kjhdp | 2011年8月12日 (金) 05時12分
『千葉県柏市で2歳10ケ月の子供が【餓死】した事件』で、27歳の母親は「育児放棄したとみられ、子供を離されるのが嫌だった」と供述し、39歳の夫は「無職で生活が苦しく、治療費が出せなかった」としています。
39歳の男性、27歳の女性が仕事がなく、子供の養育費もないとはあり得ないことであり、生活保護費及び子供手当等を入れれば十分な生活費はあった筈です。
万一生活保護がされていなかったとすれば、これは行政側の怠慢となります。
行政側は、何度も家庭訪問をしていたと言われていますが、アリバイ作りに訪問していただけと言われても仕方がない結末であり、一体、日本はどうなってしまったのでしょうか?
投稿: 久美子 | 2011年8月12日 (金) 21時47分
貴重な記事を有難う御座いました。
子供に戦争教育する時
オイラ様のように
「原爆1発と数日間空襲と、どっちが良い?」と
子供に問いました。
真剣に考える子供に驚きました・・・・・。
「『どっちも要らん。』と答えなさい!!」 と
厳しく教えました。
亡くなった、5人のおじ 達を思い
頑張って働いてまいりましたが
GNP2位に 成ったにも拘らず
自殺者3万人X14年 の 日本・・・・。
また、身分制度・戦争の足音が
ヒタヒタと聞こえるようです。
原爆に付きまして Dr、肥田が仰るように
USA一部の方の
実験のような気が致します。
感 謝
投稿: 邂 逅 | 2012年6月17日 (日) 21時19分