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2011年5月11日 (水)

2011年の4月のスペイン。マラガ編:この地を今回の最終の地とした。

さてまたスペイン紀行に戻ります。大きな目玉としてバルセロナ⇒マドリード⇒セビリア⇒グラダナ⇒トリモリーノス⇒ミハスと駆け巡って、最後のマラガということになりました。旅としてもかなり疲れてきました。

ところで、あまりにもミットモナイので、秘密にしておこうと思っていましたが、この地を訪れる日本人のために、あえて告白しますが、実は生まれて初めて”スリ”にあってしまいました。トリモリーノスに行くため、いったんマラガを経由したのですが、そのマラガの中央駅で、トリモリーノスに行くための電車の切符を買おうとマゴマゴしていていたら、若い数人が別々に声を掛けてきました。いまから思うとそれらがグルだったように思えます。

どこから来たのかと聞かれたので、”ハポン”からだと云ったのだが。電車の切符を窓口で買って財布をうっかりズボンの左前ポケットにしまった。多分その瞬間を見られたのだろう。上着の胸ポケットに入れ、ボタンを留めればよかったのかもしれないが・・・。パスポートは上着の右胸ポケットにボタン留めで入れてあるのだが。次に電車に乗っているときも誰か若者に声を掛けられたような記憶がある。そしてトリノモーリスの駅に着いて、・・・・・・

ホームを歩いていたら、今度は相棒が声を掛けられた。これらが記憶としてある。そこから、急な狭い坂道を小トランクを引っ張りながら下って、ホテルに着き、チェックインの時、事前にVISAカードを提出する。この時カードをしまってある財布がなくなっていた。日本人は外国でも大枚の現金を財布に入れているという噂があるのか、日本人が結構狙われるとのことだった。

オイラ財布には、日本円で1万~2万円しか常時入れてないので、現金は何かつまらないものを買ったと思うことで慰めになる。しかしVISAカードが心配だ。どうしようかと思った。愚かなことに、時々電話する銀行のVISA担当への電話番号の控えがなかった。そこでホテルのフロントに行って、片言英語なのだがなんとか通じ、フロント側は、VISAのコールセンターの番号を調べて教えてくれた。

そのまま、フロントの電話を使わせてもらい、日本語の解る人をお願いすると英語で云ったら、日本人に変わったので訳を話し、VISAの使用中止の手続きに入ってくれた。以後は相棒のVISAカードに頼ることとなった。まったくスラれたことは気がつかなかった。アチラのスリは神業と聞いていたがまさにその通り。多分マラガの駅から数人の連携で狙われていたのだろう。

幸いカードによる被害はなく、現金のみで済んだが、財布が亡き父親の遺品だったのでそれが残念だった。そしたらこの地は革製品のお店で有名なところで、皮の財布(大変安かった)を買って今後の戒め(笑)とすることにした。他の必要でないカード類は日本に置いてきて良かった。

結論として善良なるスペイン国民は、普通は、自分から声を掛けてはこない。その代わり困って、こちらから声を掛ければ、それなりの対応をしてくれる。しかしスペイン語となるが。気軽に声を掛けて来るのは、それなりの目的を持っていると考えた方がいい。特に若者。また”ハポン=日本人”だと云う事も、場合によっては避けた方がいいとも思う。日本人は”お花畑”と評判らしいからね。これイタリアでも同じようなことは云える。オイラも”お花畑”だったらしい(笑)。

さて本題

このマラガだが、前々記事のごとく、ミハスから一旦フェンヒローラという、大きい海岸リゾート地の街の中で直行バスを降りて、そこからまた直行バスでマラガに向かった。そこの乗車券売り場でチケットを買い、20分ぐらい待っていた。時間があったのでこの回りを写真に撮った。

(以下クリックで大)

Dscn0604_r バスの乗車券を買う列。ここは小さなターミナルとなっているようだ。ここにも多くの欧州からの観光客がいた。

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フェンヒローラの街の中。トリモリーノスが坂の街とすれば、こちらは平地地の海岸リゾート地となる。新興のリゾート別荘マンションが数多くあった。もちろんマラガから通勤圏なので、ここで生活をしている人も多いだろう。

ミハスからフェンヒローラまで、直行バスで25分で1.25€=160円。フェンヒローラからマラガまで45分で1.84€=230円と大変廉価だった。日本ならこの数倍の金額となるだろう。

このマラガという都市は、アンダルシア州マラガ県の県都。人口は56万人で、スペイン第6位。地中海に面し、リゾート地コスタ・デル・ソルの中心である。画家のピカソの出身地としても有名だそうだ。

歴史

紀元前1000年頃、フェニキア人が現在のマラガの位置に「マラカ」(Malaka)という都市を建てた。「マラカ」の名はおそらくフェニキア語の「塩」から来ており、港で魚が塩漬けにされたことによる。その6世紀ほどのち、カルタゴの領土だったイベリア半島のほかの地域とともに、ローマ人により征服された。

5世紀からは西ゴート王国の支配下に入った。 8世紀にイベリア半島はイスラム教徒に征服され、マラガは重要な貿易の中心地となった。マラガは後ウマイヤ朝に領有されたのち、タイファ時代にはグラナダとは独立した王国の首都となった。この時期、マラガは「マラカー」(アラビア語:مالقة)と呼ばれていた。

レコンキスタの最終期になってから1487年にスペイン王国に征服された。 1936年、スペイン内戦においてフランコの反乱軍とイタリア軍により激しい空爆にさらされた。1960年代以降、コスタ・デル・ソルの観光業によってマラガの経済は大きく発展した。

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このマラガの街をグーグルアースで俯瞰してみると

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このように、大きい港湾を持った海岸沿いの街だ。そばには大きな山脈が控えている。

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ズームアップすると、港のすぐ上に小山の緑が見える。ここに後述するアルカサバとヒブラルファル城があり、ここからの展望は大変いい。またその下には丸い闘牛場が見える。

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さらに、ズームアップすると、画像真ん中のところから、途中アルカサバ、そして頂上のヒブラルファル城を目指して、大ジグザグの坂道を登っていくことになる。頂上の城の傍には、”バラドール・デ・マラガ・ヒブラルファロ”という長い名前の最高級ホテルがある。もちろん裏のコースで車道も整備されている。

直行バスは海岸通りで停まり、そこからホテルまで歩いて行けた。ちょい迷ったが。

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画像にはないが、もっと広い賑やかな大通りも各所あった。

次の日は、古城ビブラルファロ城を目指して、この急な坂道を登っていった。余りにも長い坂道だったので、カミさんがもう厭だと牛のように動かなくなってしまった。近くのベンチで休んで、ウシウシと声を掛け、再度登り歩き。これを数回繰り返した。

Dscn0634_r ちょうど城に着いたらそこに資料博物館があり、この模型があった。この急な坂道を登って来たことになる。

Dscn0626_r この画像では分かりにくいかもしれないが、下にアルカサバの遺跡が見える。この坂をノッソリ、ノッソリ登った次第。

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眼下に広大なマラガの港湾と街を見ることが出来る。

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アルカサバは完全に城壁で守られた遺跡で、これ、古代ローマの要塞の跡に、モーロ人によって11世紀に築かれたとか。イスラム式庭園もありイスラム文化が取り入れられている。そして、その上にあるヒブラルファロ城は、このアルカサバを守る要塞として、14世紀に造られたそうだ。ここからの眺めは、マラガの街全体を見張らせる。城壁の上に通路があり、いわば長城だ。下から攻めてくる敵の監視をしたのだろう。中は庭園になっていて、また、この博物館があった。

この地はあのピカソの生誕の地であることも有名だ。生誕の建物には行かなかったが、ピカソ美術館には行った。

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Dscn0653_r ピカソ美術館のある付近とエントランス。なんたってこれまでの都市で、このピカソの作品を厭と言うほど見て来た。また館内の撮影は禁止だったので、今思い起こすと、ここにどのような作品があったのか思い出せない。ただここには、絵画以外彫刻や陶芸など未公開の作品も含む、約200点の作品は常時展示されているとか。「白い帽子をかぶったパウロ」「亡きカサヘマス」などがあったらしい。また地下には、ここは16世紀の宮殿を改装したらしく、その基礎工事の時見つかった、フェニキア・ローマ・イスラム時代の遺跡がそのまま保存されていた。

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夕食はホテルに聞いて、パエリアの美味しい店を教えてもらった。左画像はその辺の雰囲気で”バル”の店、若者達が元気良く飲みながら駄弁っていた。ところが、着いたのが7時半でまだ開店していなく(客がいると勘違いしたが店の従業員が腹ごしらえをしていた)、8時の開店まで待った。

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Dscn0665 アサリのワイン蒸しと手長エビ入りパエリアを注文した。ワインも頼んで、パン付きで2人で48.40€=約6,000円だった。今回朝食は、ほとんどホテルで摂った。ビッフェスタイルなので、様々その地の料理を少しずつ食することができるからだ。また、メインの夕食も2、3度滞在ホテルのビッフェスタイルで食した。

スペイン料理には、羊の脳味噌料理とかモルモン料理があるらしいが、なんたって言葉がわからないし、アレな食事にあえて挑む気力もなかった。ただただ、牛・豚・鳥のミートか、フィッシュか、サラダか、その中でブッツケ本番で選んだ。もちろん事前に調べて、スペイン語でメモっていればよかった話なのだが。

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海岸大通りと平行して、緑豊かな公園道路があった。これらもここ十数年でよりグレードが高く整備されたのだろう。ほとんどが新しかった。

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グーグルアースでは工事中だった港湾と平行した施設の”ハコ物”が完成していた。中には入らなかったので、何なのか分からない。

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港湾には、大きな客船やフェリー船、また観光用なのか帆船が停泊していた。地球海クルーズや、北アフリカ往復路を行き交っているのだろう。北アフリカからの避難民はここにも来るかもしれない。まぁ、スペインが受け入れるかどうかは分からないが。横浜港より、港湾含めて雄大だった。

まだまだ、マラガは見所が沢山あるのだが、カテドラル(大聖堂)は見飽きたし、礼拝堂も見飽きた。そうそう、セマナ・サンタの巡行なのだが、このマラガとセビリアが一番盛大とか。道路も規制されていて、その為街の中を迷ったわけだが。ところが天候が雨降りで中止になったらしい。これ例年として珍しいとのこと。

ちょうど通りを歩いていたら、とある不動産屋の物件情報が展示されていた。参考にと写真に収めた。

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VENTASというのは分譲物件らしい。またALQUILERESというのは賃貸物件のようだ。VENDIDOというのは完売という意味だろう。左上の画像について見ると、127.000€=約1,600万円から高いので450,000€=約5,600万円とある。詳しい内容はこれでは分からないが、この辺の価格帯みたいだ。賃貸については、月に500€=6.3万円から1、000€=12.5万円前後が価格帯みたいだ。これがバブル価格なのか、崩壊過程にある価格なのか分からない。

さて、帰国するべく、まずこのマラガ中央駅から、マドリードまで新幹線renfeで行き、マドリードの以前と同じホテルに一泊して、マドリード空港からミュウヘン空港まで行き、そこから成田行きの空路で帰った。

マラガからマドリードまでは直線距離で416kmで、ちょうど東京から新大阪ぐらい。改札のところで、テロ防止のため、手荷物検査が行なわれていた。以前この新幹線renfeはイラク戦争のころ、テロにより爆破されたことがあるからね。

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ここでまた、スペイン新幹線”renfe AVE”に乗った。バルセロナの中央駅サンツ駅で着いた早々、このAVEの乗車券を全て買ったのだが、セマナ・サンタとぶつかったのか、この便については、一般席の券は売り切れていて、1ランク上の指定席となっていた。この上に最高クラスの席もある。つまり3段階ある。乗車券は1人119.35€=15,000円だった。これは老人割引があっての価格だ。また空路と似ていて、昼食とドリンクを含んでの金額だ。約2時間半で到着した。最高時速は300km/hを見た。

因みに、東京-新大阪間が、新幹線のグリーン車で座席指定約18.600円だ。もちろん食事・ドリンクは付いていない。ところで、このスペイン鉄道のrenfeのAVE(高速新幹線)は、公社が運営しているが、この安い運賃とずべて指定席ということの収入を考えると赤字経営ではないかと考えられる。もしこれで黒字だったら、日本の新幹線の乗車料金は高すぎで、ぼり過ぎ価格ということになる。もちろんトンネルの少ない、またほとんどが平地の線路敷きだから、建設初期投資は日本より少ないかもしれないが。その辺のところが、まったく分からない。なぜ、こんなに安いのか。

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座席は黒皮製で座席前が広い、テーブルも広い。無料の飲み物と無料のランチ。また袋に入ったイヤホーンで音楽や通路上にある画面で映画鑑賞も出来る。(左上画像は、4人専用席)。このクラスの車両は片側2席、通路を挟んでもう片側は1席だった。車両幅は日本のより狭い。

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日本の新幹線の仕組みと大きく違うのは、先頭と後尾の車両がいわば機関車となって全体を引っ張っていることだ。これは、嘗て石原慎太郎がテレビで指摘していた。つまりノンストップで長距離まっすぐな線路を走るのならいいが、線路が曲がりくねっていたり、短距離で停まる場合には、各車両にモーターや制御装置がついている日本の新幹線のほうが優秀だと。なるほど、renfeは機関車車両だった。

マドリードに着いて、余った時間、ディッセン・ボルネミッサ美術館と王立植物園に行った。もう絵画は見るのにくたびれてしまっていた。もったいない話だが。

これ、オイラの幼稚かもしれない感じ方なのだが・・・・・。

欧州の絵画の発展は、キリスト教徒が宗教を広めるために、聖書という活字と、解りやすく視覚に訴える絵画を武器として使ったのだろう。”最後の晩餐”の絵も、これでもかと言うぐらい、各種の描き方をしていた。オイラは”レオナルド・ダ・ヴィンチ”のしか馴染みがなかったが。

初期のキリスト・マリア関係の絵画は、間が抜けたような絵画だったが、だんだん画家達が工夫して、より写実的(写真的)に現実味を帯びた絵画として行った。そうすると誰でも自分の姿を残したいと、金持ち連中が、妻を、愛人を、娘を、そして自分をモデルにして描かせた。やがて画家は慰みに一般庶民をも題材にして写実的絵画を残していった。

そのころ写真が現れ、これと勝負をしなくてはならなくなった。やがてカラー写真の技術も発展していった。そうすると、写真では撮れない絵画の世界を目指し、印象派的絵画などに発展していった。そして現在は、絵画の世界も描写の仕方は無限の状態になった。そこにPC技術の一般化の現在、その印象派的絵画もPCソフトを駆使すれば、もっとバラエティーに飛んだ美術を作れる時代になってきている。

名画と言うものも、クラシックの曲や、JAZZの名曲のような、誰でも知っている、知らなくてはならない存在になっているのだろう。とにかく無宗教のオイラとしては、宗教画を鑑賞するのには疲れました。なんたって宗教絵画があまりにも多かったので、宗教絵画麻痺を起してしまいました。

マドリードの空港から、ミュウヘン空港。そしてロシアのツンドラ地帯、シベリア上空を通って、無事日本に帰りました。ミュウヘン空港も館内に広場やスーパーマーケットなどもあり、楽しい最新の空港でした。

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コメント

スペイン紀行、毎回興味をもって楽しく読ませていただきました。ガイドブックにはない、詳しい体験談が面白かったです。
フランス・イギリスにも行きましたが、スペインは後にとっておこうと思っていました。またお金を貯めて目指したいと思っています。

ブログ主さんの大変な努力に感動をしました。私もこのような紀行文をまとめてみたいです。

投稿: 初夏 | 2011年5月11日 (水) 16時30分

スリにあったのですか。
大きな被害がなくて良かったですね。

ルーマニア人系、モロッコ系が多いとか。
真昼堂々とやるみたいですね。

スリのほかに、トランクなどの置き引きもかなりあるみたいです。若い女の子連もスリ集団のときもあるとか。
とにかく、人通りの多いところを、バッグは前胸になるように。財布は胸内側ポケットにボタン留めがいいでしょう。あと必要が無いのに声をかけられたら無視をする。写真を撮ろうと荷物から手を離したりするとき、やられます。


ここに、その辺のところがコメントとしてあります。
http://www.arrobaspain.com/cgibin/wwwlng/wwwlng.cgi?print+201101/11010143.txt

投稿: anemone | 2011年5月12日 (木) 13時45分

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