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2010年7月21日 (水)

明日、あさっては町内の葬式で葬祭という祭りだ。この際葬儀について考える。いずれみんなの未来なのだ。

NHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の視聴率がうなぎ登りに上がっているそうだ。カミさんと毎日欠かさず観るのが常態化してきた。オイラのブログでも記事にしたことがある。

オイラ、大学浪人のころ、まんが雑誌「ガロ」に夢中だった。そして「ゲゲゲの女房」。2010年4月 9日 (金)

そう、ドラマでは「墓場の鬼太郎」の世界が、どうやら少年にも青年にも受入れられてきたのだ。

長い貧乏生活のなかでのマンガの執筆活動が実を結んで、月刊雑誌(ゼタ⇒ガロ)でも好評をとり、今度は週間少年雑誌にも載るようになり、貧乏神も退散したようで。またテレビの話も持ち上がり、従来のように一人ではとても間に合わない。そこで今日の放送では、偶然に3人のスタッフが揃って、これからの生産体制が整いつつある場面で終わった。また会社化の話も協力者のお陰で進んでいる。これがやがて水木プロになるわけだが。また集まったスタッフもやがて有名なマンガ家になっていくのだろう。

ちょうどオイラのような建築設計の世界と非常に似ていて、締め切りに追われる時の気持ちや焦りは共通する思いを感じた。オイラの場合、酒を伴う営業も兼ねていたからもあるが。

話は変わるが、昨夜、電話連絡が来て、町内会の同じ組の家で葬式が出た。90歳のジジ様だ。そろそろだとは噂を聞いていたが。明日昼にその自宅に集まり葬儀の準備が始まる。その日通夜、あさって葬儀だそうだ。1日半がそれに費やされることになる。まぁ、以前と違って近くの斎場でやるので、大変楽になったが。

さて本題

ここで、葬儀について考えてみよう。

以前宮古島と沖縄に行った時の記事で、アチラの葬儀やお墓について紹介したのだが。

続:宮古島・沖縄本島の普天間や首里城や・・・・・あれやこれ。2010年5月17日 (月)

沖縄地方の死生観

オイラのポン友が、墓石店の社長なので、その影響からか、なんとなく墓にも興味がある。道中、墓場が多くあり、写真に収めた。

この通り本土の一般の墓とまったく違う。これは前から気になっていた。台湾に行った時に見た墓場と似ている。そういえば宮古島で寺を見つけることが出来なかった。あることはあるらしいが。 最終日に、沖縄本島にある首里城跡地公園にいったら、これらについて詳しく説明がされていた。

結論は、徳川幕府に出来た、キリスト教を排除するため厳格化された檀家制度の影響を受けていなく、それまであった死生観というか宗教というか、それを伝統的に守ってきているということが分かった。

そもそも、江戸時代には、沖縄は琉球王朝だったわけだから、本土の施政の影響外だったわけだ。そこでこの辺について調べてみた。 オイラの家は代々浄土宗なのだが、葬式仏教として檀家になっている。寺からの金の徴収には、時々頭に来ることがある。しかしご先祖を人質に取られているようなものなのでで、しかたなく脱退はしていないというのが現状だ。

この記事の後半には、「沖縄の死生観に関する信仰」について調べたものを載せてある。

琉球王朝の流れを汲んでいるのか、沖縄地方は仏教一色の本土とは、かなり違った死生観を持っているのを感じた次第だ。そして火葬について最近は国の方針でかなり普通に行われるようになったが、墓は昔の習慣を残しているので、本土とはかなり違った形をしている。

また、基本は神式または、「仏式風神葬祭」と云われるもので、神式について云えば、はるか昔、まだ仏教の力が弱かった時代から続いてきた先祖崇拝を基本に置いた古来日本の葬儀を引きついているように思える。

ちょうど日曜日の昼に、NHKのドクメンタリー番組で与論島の葬儀についてやっていた。ある公務員を退職した人の母親が亡くなって、その葬儀の一部始終を取材していた。与論島は大学生時代、春休みにダイビングを中心に2回ほど訪れたことがあり、懐かしくもあり身近に感じる。

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与論島の葬儀・死生観を調べてみると、詳細な資料を見つけた。

与論島葬祭研究2004  公益社・エンバーミングセンター・宇 屋 貴 からの引用

序 論  与論島はまさにその瞬間  

日本のみならず、世界中で土葬から火葬への移行が推進されている。日本の火葬率は98パーセントを超えるほどになっている。全国市町村、どこに住んでいても車で1時間圏内に火葬場があるといっても過言ではない。 

そうした世の中の流れの中で、平成15年10月6日に鹿児島県の与論島では、島で初めての火葬場がオープンした。土葬主流から火葬主流へと変わるまさにその瞬間を取材した。 

一つの文化が異なる文化に変化するのに60年かかると言われる。親・子・孫の世代が60年で入れ替わるという考え方である。そう考えると、与論島の火葬場建設計画が出て30年経って火葬場ができた現在は、その折り返し地点といえるだろう。この考え方は一見安直にみえるが、取材をしていくにつれ、その考えがただの推測ではないことがわかった。

人口約6,000人の与論島の葬儀についてなのだが、なんと火葬場の計画が起こってから、島民が火葬場建設に納得するまでに30年掛かって、平成15年に完成したそうだ。近親者を火葬にするということには、大変抵抗感があったようだ。そしてそれまでの葬儀には、様々なオキテがあり、様式がありで、火葬になると、これらの大昔からの習慣が全部吹き飛んでしまうのである。

ここでは、「第2章 葬儀の方法 臨終」でその方法が説明されている。

病院で危篤状態になったり、余命宣告を受けた患者は、一旦自宅にもどって最期を迎える。というのも、亡くなった場所にその人の魂が宿る、といういわれがあるからだ。

遺体安置室(霊安室)が無い病院が多い。交通事故や不慮の災難によって死亡した場合は、神官が死亡現場に出向き、そこで「大祓い」を行い、魂をヒモロギ(位牌)に移す。その後自宅に霊を呼び迎える。

(以下省略)

この段階でも、とても覚えきれないほどのシキタリ・方法がある。

次に「2-1 一般的な葬儀」で詳細に記載されている。

亡くなった日を1日目とすると、2日目に通夜、3日目に葬式という日程が多い。しかし、近親者が島外や海外にいて対面が困難な場合は、ドライアイス処置を遺体に施し、日延べすることもある。 (以下省略)

こちらでの葬祭は、「2-2 仏式風神葬祭」で行う。

葬儀は、簡単にいうと「仏式風神式」である。神鏡(位牌)を安置して、時花、線香、ご飯、水、茶湯等を供えて柏手を打って礼拝する。 

我が国では仏教伝来(538年)以来、神仏習合の思想のもとで神と仏とは互いに交わり密接な関係を保ってきた。ところが明治政府の神仏分離の政策により、廃仏毀釈という社会現象を生み、政治に利用されて一部の狂信的な人々によって寺院が破壊された時期があった。

与論島でも、明治6年に沖永良部島より神官が来島して、寺を破壊し仏像仏具を砕き、島内の仏壇や位牌を一か所に集めて焼却した。徹底的に習俗から仏教色を排そうとして、その際に位牌の代わりに神鏡を「今後はこれを位牌として祭るように」と手渡した。 

しかし、これによって従来の仏式様から神式様に一変された訳ではなく、既に当時(明治8年)より戒名が授けられており、島民は神鏡に先祖の御霊を宿して従来の祭り方をした。 

ここに、香を焚き、時花を供え神鏡を位牌として拝するという、仏式神式混合の様式が生まれることになる。神鏡を「イペ-」(位牌)といい、神官を「ボウジ」(坊主)と呼ぶ。さらに「チュナヌカ」(初七日、死後十日目の祭り)、「トウカナヌカ」(十日毎の祭りはいままで七日毎に行っていた祭りに相当するということ)等の言葉も残っている。

途中は省略して、「第3章 埋葬方法」の「1-1 風葬」

風葬は、古事記や日本書紀などでも登場する日本古来の葬法である。明治初期までは、与論島でも一般的であった。

遺体を人目につかない岩場の風葬墓に3~6年安置して白骨化してから洗骨をしていた。洗骨した後、風葬墓の一番奥に頭蓋骨を納め、入り口付近にそれ以外の骨を瓶に納めて置く。 

風葬は、岩の洞穴付近に4つ平らな石を置き、その上に柩を載せる。柩は筵などで包み、雨露を凌げるようにフバ(蒲葵)の葉を二重か三重に覆い、縦横上下を棕櫚縄で縛る。そして、柩の周囲を30cmほどの高さに石を積む。 

風葬の時、葬送中、九本旗・七本旗・五本旗を掲げた。旗の数が多くなればなるほど社会的地位の高い家柄ということを示していたようだ。

しかし、この風葬は国の指令で土葬に変えられた。「2-1 風葬から土葬へ」

風葬から埋葬への移行を必要としたのは、衛生上の問題が大きい。近辺には死臭が立ち込めることも少なくなかった。

明治11年 風葬⇒埋葬 県から命令

明治35年 風葬⇒埋葬 県警から強制命令

昭和30年 この頃が風葬の最後

さてこの辺から、オイラがNHKの番組で観た取材場面となる。

風葬から土葬にしなければならなくなり、試行錯誤を重ねて、過去を引きずりながら新たな方法を考えだしたのだろう。  「2-2 葬儀当日の土葬」

葬儀の当日は、出棺時刻の2時間~3時間前に比較的遠い親族もしくは近隣の男性3~5名が墓場に出向き故人のための穴を掘る。その穴を掘る人を「池掘り人」という。池掘り人は、あらかじめその土地の地神とご先祖に礼をつくし、酒を地面に吸わせる。

その後、穴を掘り、故人が来るのを待つ。やがて葬列が見え出すと、懸命にワラに火をつけ墓場の位置を知らせて御霊(みたま)を迎える。このとき、池掘り人は故人に対して「あなたの安まるところはここですよ。」と念じたりする。 

埋葬する際、棺に竹の筒(なかにはプラスティック製のパイプで代用しているものも見受けられる)を一本垂直に差し込み、棺内と地上の間に空気の通り道をつくる。これは、故人が埋葬後も魂が「遊び」に行くためだとか、故人に息をしやすくするためという言い伝えによるものである。砂ですっぽり埋められると、竹筒を中心にして、その上に「龕〔がん〕」と呼ばれる「家」のような形をした木製の小屋が被せられる。その中には、位牌、お神酒やタバコなどのお供え物が置かれ、周りには故人が生前使っていた靴や衣類、杖や荷車といった愛用品が置かれる。

土葬場所(墓地)は砂地である。埋めやすく掘り返しやすいからだという。 

49日までは、亡くなった人も早く腐るように「がんばる」と考えられている。 一家の墓地範囲は2間四方くらいのスペースしかない。一人の改葬が終わるまでに一家の他の者が亡くなった場合は考える必要がある。2人以上を並べて埋葬するのが厭われる傾向があり、一般的には一人目を改葬(洗骨)してから2人目を埋葬する。

(以下省略)

さて、これで終わりではない。「3-2 改葬(洗骨)」というのがある。

改葬とは、故人の骨を男性が掘り起こし、女性が洗って骨甕に納めることである。基本的には全身の骨を納める。 

改葬(洗骨)は、故人を埋葬した後3年~5年経って行われる。長いものは10年経ってから改葬される場合もある。改葬できる日は旧暦の3月27・29日もしくは8月27・29日(現在の8月)に限られる。改葬のタイミングは、墓の龕〔がん〕が地中に埋もれる度合いを目安にすることもあるようだ。棺と遺体は、腐敗していき、その上の砂面は徐々に下がって行く。それに伴って、龕〔がん〕が砂に埋もれていく様子が容易にわかる。 

また、近親者に妊娠している者・病気をしている者・厄年の者・近々結婚を控えている者・新築中の者がいる場合は避けられる傾向がある。さらに、暦をみて、例えば「辰」の日には「辰」生まれの人は行かない、ということもある。 

改葬の前日には通夜のような儀式があり、親戚が集まる。 当日は朝6:00くらいから改葬を始める。20年前以前は、人目を忍んで夜中や早朝にしていたという。天候に関わらず、黒い傘をさしながら進めていた。今はテントなどをたてたりして、親戚が集まってどちらかというと和気藹々とした感じで和やかに進行する。その最中はずっと、故人への声かけを忘れない。 

改葬骨(洗骨)はグロテスクだと、町の人は口をそろえていう。49日が過ぎれば、全ての関節が外れるという考え方があるようだが、3~5年経って掘り返すと、骨は真茶色で、肉片がところどころに残っていることもあるらしい。それらを、竹の箆等を使って取り外す。このとき決して鎌や刀などのような鋭利なものは使わない。 

頭から掘りだす。頭を掘り出すのは、喪主格の近親者の役目。続いて親戚の男性が全ての骨を掘り出し、女性が水とキッチンタオルのようなもので洗う。少し残っている副葬品や棺は灯油をかけて焼かれる。遺骨は、1メートル弱の高さの「イリジ」と呼ばれる骨甕に足から順番に入れていく。

頭蓋骨の上には、タオルを何枚か入れ、その上に白衣(キヌ)を置く。骨甕の蓋は紐で固く縛られる。骨甕は先祖のものよりも下座に、上部を出した状態で埋められる。 最近は火葬場ができて、掘り出した骨が焼かれ、骨甕や骨壷に納められることもある。  

沖縄や奄美の葬送儀礼で、当初風葬や埋葬をしておいて、ある期間の年月を経過して、遺骨を取り出して拭いたり洗ったりして、浄めてから改めて納め直すことを、「改葬」もしくは「洗骨」と呼んでいる。

一般的に沖縄では「洗骨」といい、奄美では「改葬」という。ところが与論島では同じ行事を「ヲゥガン」と言い習わす。「ヲゥガン」とは「拝する」ことである。「改葬」は葬法を表し、「洗骨」は行為に関して使われている言葉である。それに対して「ヲゥガン」というのは、精神に重きを置いて使われている言葉である。

そこで、「ヲゥガン」は先祖崇拝の理念の具現された行為であり、遺骨を故人の霊体とみなして、身近に接し拝することである。そして「洗骨」は、ヲゥガンの為の前方便である。このことから与論島の先人達は、近隣の島々よりも、先祖に対する追慕の念が厚く、また、日頃の生活の中でも、常に先祖と身近に関わりあっていたことを物語る。

テレビ番組では、与論島では、子供の時から皆、戒名的な第2の名前が付けられているそうだ、忘れてしまったが3文字か4文字の簡単なものだが。

長い引用で申し訳ないが、大昔日本でもこのような葬祭が延々と行われてきて、たまたまつい最近まで、この与論島が残っていた。また、沖縄・奄美地方は本土から離れていたせいで、太古からの葬祭の面影を残していたということになると思う。

火葬というのは、もともと仏教の釈迦が火葬にされたことが伝来され、日本に持ち込まれたものだが、当時それをするには、膨大な量の薪が必要な為、裕福な家しか出来ず、普通には土葬が主流だったようだ。

日本では現在ほとんどが火葬が常識だが、いまでも法律上は、土葬は禁じられていないが、環境衛生上好ましくないという見方がされている。しかし世界的にはまだまだ火葬には抵抗感のある国民は多く、かつ宗教上の禁忌とされているのも多くある。

儒教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教なども火葬は禁忌とされている。もちろんそれらの人々も最近は火葬を選ぶ人も多くなっているそうだ。火葬施設の性能の向上も大きく貢献しているそうだ。新しい施設では、ほとんど煙も出ないようになった。

現在欧米での火葬というのは、より強烈な火力でパウダーにしてしまう。教会・自宅・病院から遺体がその火葬場に運ばれ、骨がパウダーになったのを小さな壷に入れられ、配送されてくるそうだ。火葬場には遺族は行かない。

日本では、そこまで焼かないで、骨が拾えるぐらいの焼き加減にする。これは従来からの葬祭の習慣に合わせているからだそうだ。

まぁ、それにしても、昔の葬祭には、こんにちと比べると莫大なエネルギーを費やしたものだ。信じられないほどの。またそれがある意味葬祭というお祭りだったのだろう。そこで飲んだり喰ったりの。

ところで、オイラの地方では、多少古くからの習慣がアレンジされてはいるが残っている。火葬場から遺骨が来ると、自宅より葬儀行列(葬列)をつくって、すぐ近くにある墓場に納骨をするために行列で歩く。

また死者が長寿で大往生の場合には、孟宗竹を加工して、傘の柄状にして、そこに色紙と一緒に硬貨を貼り付け、葬列の際それを振って、硬貨をばら撒く。それを子供達が拾う想定なのだが、いまや子供達は忙しいので付き合ってくれない。結局大人達が拾うことになる。

また「浜降り」といって、海が近くなので、海岸の砂地に祭壇を設け、寺で用意した簡易な位牌を置いて参拝する。あと町内の組としてのお供えもする。

オイラは自称シティーボーイなので、もうこれら習慣はいい加減終わりにしてもらいたいのだ。しかしこれは禁句なのだ。古い家々がそれを許さない。その抵抗として、8年前のオイラの父親の葬儀の時は、全てそれらを組長に指示して省かせた。多少文句も出たが、喪主兼施主の命令だということで、納めさせた。

さあ、明日と明後日の今回の葬儀。どの場面で逃げて、どの場面で奉仕するか、結構単純ではないのだ。

一粒で二度おいしいオイラのブログ:  今日の画像

いろいろなお墓です。どれがお好みでしょうか。

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↑宮古島地域のお墓

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↑沖縄県名護地域のお墓

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↑本土お寺の境内の中のお墓

塔婆が長いので日蓮宗系か?

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↑お墓のラッシュ

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↑今流行の形のお墓

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↑外国のお墓。平等でスッキリしているような

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↑これも平等でスッキリしている

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↑完全に土葬のお墓のようだね。なんか可愛らしい

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↑なんて美しいお墓だ。ここでピクニックで、弁当をひろげられそう。

 愛を語れそう!

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コメント

じい様が生きていたころ聞いた話。

戦前は、この地方は今でいう火葬施設はなく、いわゆる野焼きだったそうだ。

そして、一晩掛けて遺体を薪で焼くそうだ。このような時は、人生勉強として、青少年(青年会)が担当になる。

一晩中、野焼きの番をするのだが、時々遺体の足がピーンと立ち上がることがある。これは筋肉・関節の影響らしい。

そんな時は、皆一斉に逃げたそうだ。しかしそれでギブアップしたら、年長者に何を言われるか分からない。

歯を食いしばって、再度その現場に戻り、薪を補充しながら、朝日の上がるのを待ったそうだ。

なんか、聞いていて滑稽なような、ほのぼのしてくるような、変な感動を受けた。

投稿: ヤマアラシ | 2010年7月22日 (木) 11時53分

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