オジキを訪ねて500キロ。そして雨とミゾレの神戸をさ迷い歩く。
所得税の確定申告作業やら、なんだらかんだらで更新が滞っていました。
9日と10日は、数十年無沙汰だったオイラのオジキ(母親の弟)に会いに行きました。オイラにとって印象深いのは、「オイラご幼少のおり」兄貴のような、オジキなような、よく可愛がってくれた思い出。それ以後も数回会ってはいたのだが、葬祭時的なものだけで、個人的な付き合いは機会が無かった。
歳は一世代歳上の70超えの人生の先輩だ。自分の孫の面倒を見ていると、走馬灯のように「オイラご幼少のおり」が思い出されてくる。孫と自分がダブってくる。まるで孫がオイラの幼少時に見えてくる。オイラは息子を持たなかったので(娘ばかり)、一層その感が強くなるのだろうか。
昨年から数回連絡し会い、今回の「オジキを訪ねて500キロ」になったわけだが。目的の一つは、母親系統のご先祖をこれまで断片的に聞いていたのだが、もっと突っ込んで聞いておきたいというのもあった。また今、オジキがライフワークとしている「竹肥料農法(バイケミ農法)」について。あと大震災以前に会議で訪れ、ほとんど観光しなかった神戸の街を見てみたいとか、まぁ、様々ありまして。
時間節約で空路を使ったのだが。当初、神戸空港目指しだったのだが、1月の時点では、羽田からだと日に3便しかなかった。それが2月になると日に2便。もの凄い早朝便と夜便しかない。ANA・JAL同じようなもの。ふと考え伊丹空港はどうだろうと見ると、なんと1時間ごとにとんでいるのではないか。
ご存知、この伊丹空港は街の真ん中にある。香港の旧空港も高層ビルの合間を交わしながら離着陸するようで、オッカナイ空港だったが、それでも一部進入路は海と接していた。しかし伊丹の場合には、まさに街の中に空港はある。いままで大きな事故がないのが不思議なくらいだ。まるで、沖縄の普天間基地なのだ。
(クリックで大)
ところが、関西圏としては、この伊丹空港は交通網がしっかり出来ていて、まして地域の中心地、まことに関西圏の人々にとっては、使い勝手がいいわけで。大昔と違って空路はいまや庶民も頻繁的に使う手段。ここを廃港にして、関空と新しい神戸空港だけにしようという世論はなかなか沸き立たない。やがて大事故が起こった時まで待たないと、この建物密集地にある空港の解決はしないのかもしれない。
伊丹空港から、三宮駅前までリムジンバス。そこから電車で、新開地駅。そこで乗り換え西鈴蘭台駅。オジキの案内通りのコースで行った。オジキが駅に迎えに来てくれていた。数十年ぶりの再会だ。面影はぜんぜん変わっていない。オジキの車で自宅に。閑静な住宅街だった。奥様とも再会して昼食を交えながら歓談をした。
当初午後、車で神戸の名所を案内してくれる予定だったが、あいにく雨が降ったり止んだりなのでそれは取り止めにして、6時に夕食を予約してある時間に間に合うまで、自宅歓談に変えた。まぁ、いろいろな話を取り留めなくしたのだが。
まず、懸案の母系先祖の話。なんでも元は宇田川系一族と言う豪族だったらしい。そういえば母親側の祖父の法事でその寺(中道寺:在荻窪)に行った時、その寺内の墓地の墓ほとんどの碑銘が「宇田川」になっていた。遡ると、豊臣・家康の時代に活躍したらしい。もちろん広大な土地を所有していた。今の三鷹・荻窪なぞもその範囲に入っていたとか。そして千葉県内にも広大な所有地を持っていたとか。「宇田川茂右衛門」とかが、関が原の戦いで活躍しとか。まあ当時の豪族だった。今の荻窪一帯を所有していたのでこの中道寺の土地も宇田川家が寄進したとか。オイラその辺の知識があまりないので分からない。
オイラ、オジキに尋ねた。「じゃ、なんで宇田川ではなく、高木の姓に?」
明治になって、その末裔がいたわけだが。そのころも、徴兵制があったのだが、そうそう日清・日露戦争の時代だ。そのころは、戸主に限っては徴兵免除だったと。だから何人もいる長男未満の兄弟は徴兵される。そのころのエスタブリッシュな階層は、よく別の姓を買い取って、その姓の戸主になることで、徴兵を免れ事業に専念したことが多かったらしい。
宇田川家の三男が、なんのいわれもない「高木」という姓を、買うか、貰うか、拾うかして、この高木の姓の戸主になったとか。こんなことは当時普通だったらしい。この先代がやり手で鉄工所を起こし、大工場で軍事関係の鉄工品(機関銃等)を造って国に納めていた。「高木鉄工所」という会社だった。母親の籍が文京区富坂(今の小石川)になっていたが、ここにも工場を持っていた。もっと大きいのは新宿区落合地域にあったそうで、今の落合の下水処理場付近もその敷地内にあったとか伝わっている。もちろん戦争末期に空襲で焼かれ、跡形も無くなってしまったそうだ。そんなころ、事前にこのオイラの地域に別荘兼疎開地として住宅を持ち、オジキも戦中、ここの小・中学校に通っていたそうだ。
戦争が終わり、残った下落合の屋敷に、やがて引き上げた。しかしその長女がオイラの母親で、オイラの親父と世帯を持ちこの地に残った。ということで一通り繋がった。昔は「生めよ!増やせよ!1億魂!」の時代だったから、子供10人なんてのが普通。ぞろぞろ兄弟・姉妹が湧いてきて、まぁ、いってみれば賑やかな家族構成。だから親族のつながりを遡ると、大複雑怪奇が全開となってしまう。
そんなこんなで、このオジキは、横浜国立大学を卒業して、神戸製鋼に入り、設計分野の仕事を経て退職。この神戸の北五葉に自宅を建ててからもう40年だそうだ。そしてライフワークとしてこの「竹肥料農法」の推進に努め、本を著作したり、各地講演なぞをしている。なんでも、この開発者(故橋本清文)が神戸製鋼にその為の機械の製作を依頼してからの付き合いで、一緒に研究を続け、その人の亡きあと、それを受け継いで全国に普及を推進しているそうだ。そうそう、そのオジキの名前は「高木康之」と申します。
竹肥料農法―バイケミ農業の実際 (民間農法シリーズ) (単行本)
当初、「バイケミ農法」の名前でしたが、もっと分かりやすく「竹肥料農法」の名にしたそうで、内容は同じものとのこと。
オイラこの関係には、あまり見識がないのでよく分からないのだが、オジキが贈呈してくれたこの本を読んでみることにする。興味のある方は読んでみてください。そして要望があれば、全国説明講演をしているそうですから、農業関係者はぜひご一考を。
おっと、本題から外れてしまいましたが、夕食は「トゥール・ドール」という神戸を見下ろすローケーションにあるフレンチ・レストランに連れていってもらった。フランス料理の味もさることながら、神戸の夜景が一望のもと。最高なひと時を過ごさせてもらった。
夕食が終わった後、オイラ事前の調べておいた、JAZZのライブが楽しめる場所で車から下ろしてもらって、オジキにお礼を言って分かれた。この店三宮駅から徒歩で行ける便利な場所で、「ソネ」という。ちょうど今女性ボーカルとコンボの演奏。オイラの守備範囲のJAZZボーカルだ。歌手は新井雅代。オイラ「アン・フォーゲタブル」をリクエストしたら、快く応じてくれ、堪能させてくれた。いまどき数少なくなったJAZZライブの聴ける貴重な店だった。
ところで、神戸といえば例の高砂高校のJAZZバンド部。本当はこれを楽しみたかったのだが、どこで公演をやっているのかわからない。ちょうど間に合えれば、オイラ、花束もって、駆けつけたのに。いつか公演を見れるのを楽しみにしているよ。
スウィングJAZZを聴くと体がスウィングする:高砂高校ジャズバンド部:2009年6月14日 (日)
その後予約してあったホテル「舞子ビラ神戸」に着き(夜11時頃)、就寝。これもオジキが紹介してくれた。朝起きると窓全面に明石海峡上を、神戸と淡路を結ぶパールブリッジ(明石海峡大橋)が迫っていた。全長約4キロの世界最長の海上大橋とか。このホテル施設は神戸市との第3セクターの運営とか聞いている。宿泊値段も楽天を通じて予約したら一泊5千円以下の廉価な料金。大きい豪華施設にロケーションは抜群。神戸市の貴重な財産だね。
翌朝は、とにかくこの大橋を渡って、淡路島に自分の足跡を残そうと、エレベーターで大橋の階に上がり、そこから数本出ている大橋渡りのバスにのった。なにも考えずに「淡路島ワールドパーク行きの各停」とかに乗った。途中なにかいいところがあったら降りようと思っていたら、とうとう終点のワールドパークまで来てしまった。一時流行ったテーマパークらしいのだが、外からみたら限り、お客はほとんどいない。閑古鳥。まぁ、平日のせいかもしれないが、経営は大変だろうと感じた。折り返し30分後に、三宮駅直通バスに乗った。高速道路で三宮へ。
三宮に着いたら、雨とミゾレが断続的に降って来た。北野異人館めぐりコースを歩いたのだが、坂上にくると雨がミゾレに代わった。鼻水は垂れてくるし、傘を差していても、服は濡れてくるしで、まこと思い出に残る観光をした。
異人館にしても周りに興ざめな日本の平均的住宅に囲まれているので、あまり感動が湧かなかった。カナダ・米国の歴代古住宅をオイラ散々見てきているので、あまり感動がなかった(ゴメンナサイ)。そしてそこに群がるお土産屋。商魂逞しい。結局オイラ、雨時ウォーキングで通り過ぎただけだった。
その後、横浜の中華街と対している神戸の南京街を見ようと元町に電車で行った。雨はやたら強くなったが。駅からすぐ傍にあって、商店街の大アーケート通りと平行しての奥に南京街通りがあった。規模としては、横浜中華街の極一部という規模なのだが、こじんまりとしていて、なかなかいい雰囲気を出していた。
今回はまったく天気には恵まれていなかった。これで良い天気だったら印象は随分変わったかもしれない。でもこれもいい思い出の一つになるものだ。
そうそう、関東人として恥をかいたのが一つある。エスカレ-ターだ。駅や他の施設に沢山あるエスカレーター。オイラそれに乗ると当たり前に左側に立つ。後ろからオレを交わして駆け上がっていくのがいた。失礼なと思ったら、オイラだけ左側にボーッとして立っていたのだ。そうだ思い出した。関西と関東はこれは逆だったのだ。
そこで今回気になったので、正式にWIKIで調べて見た。
ロンドン・ワシントンD.C.・ソウル・香港・モスクワなどの地下鉄では右に立ち、左を歩行者に空けており、シンガポール・ニュージーランド・オーストラリアなどでは左側に立ち右側を歩行者に空けている。必ずしも各国の道路通行の左右とは一致しない。
日本では北海道、関東地方、長野県、滋賀県、京都府の一部、岡山県、福岡県では乗り込む際に左側に立って右側を空け、
仙台市および京都・滋賀を除く近畿地方では右側に立って左側を空けている。 ただ、単に前に居る人に合わせる等、左右のどちらかを空けるという習慣そのものがない地方も多い。
日本国内でなぜそうなったのか、誰もわからない。そしてそもそも、エスカレーターで片方を空けて、歩行する人専用とするのは、危険防止の為、本来禁止事項なのだ。だから、どちらか片方を日本で統一するという世論作りもできないままに、現在に至っていることらしい。これって大変面白い事例だね。
しかし、日本全国ほとんど大して変わらない、建物景観・空間の中で、こんなことで異空間に来たことを感じる。方言と同じで、これがあるから旅は面白い。
そんなこんなで、昨夜羽田から電車で我が家に帰りました。帰りの電車の方が、空路より時間が掛かりましたが。この10日の日は、夜半のニュースでやっていたが、一部を除いて全土で大荒れの天気で、おまけに強い寒波の影響で、鹿児島まで積雪。普段雪の少ない北海道釧路まで猛吹雪とか。国立環境研究所の皆さん、一体どうなっているのでしょうか。これでもやはり温暖化で人為CO2の原因なのでしょうか?(笑)
そうそう今日、ポルトガルに漫遊の旅に行っていたカミさんとその子分の三女が、帰ってくる予定。不況どん底の「PIIGS」の一つポルトガルから無事生還できるのか。(笑)多少は心配なことだが。午後4時ごろ成田到着の予定だが、帰宅は9時ごろだろう。あちらの内情報告を楽しみにしているところだ。もっとも漫遊の旅だからオイラが知りたい情報には、限度があるが。
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コメント
これ、エスカレータの並び方画像です。
なにか、東京関東圏が世界の趨勢と違っているような。
http://netateki.blog46.fc2.com/blog-entry-1555.html
投稿: totoro | 2010年3月22日 (月) 07時38分
母方の姓を検索していたら、ココにたどり着きました。
僕のおじいちゃんも宇田川で新宿の落合で地主です。もしかして親戚かもですね??
投稿: erosking | 2010年10月27日 (水) 13時12分
eroskingさん
菩提寺が同じなら、一族になるかもしれませんね。
荻窪の中道寺になります。
薄いでしょうが、血が繋がることになりますね。
母方の姓が、宇田川なのですか?
投稿: オイラ | 2010年10月27日 (水) 17時31分
はい。母の旧姓なんですよ。父親が三年前程に亡くなり、自分のルーツを探そうとおもいまして、、
小さい荻窪の~とか、そう言えばいってました!
投稿: erosking | 2010年10月27日 (水) 22時15分
人生ある時期に(人によって違う)、自分のオリジンを確かめることは大事だと思います。
自分なりに調べて、詳細な家系図を作っておくことを薦めます。戸籍簿を役所で取り寄せ、詳細に記入していくのです。除籍謄本などを含めて。
あと現在生きている親戚などに聞いてみるのもいいですね。古い写真なども手がかりになります。
この中道寺の墓は殆どが「宇田川家の墓」ばかりです。場所はネットで探してください。
投稿: オイラ | 2010年10月28日 (木) 15時15分
宇田川姓のことが書かれていたので、突然ですが、メールをさせて頂きました。
私の姓が宇田川で、色々と自分の先祖のことを調べてます。
ちなみに以前どこかで杉並区在住の宇田川氏は戦国時代は千葉氏の家臣だということを見たことがあります。
また、宇田川と言っても、宇多源氏佐々木流、扇谷上杉流などがあります。
使用している家紋で分かるのですが、実は、私のはどちらにも当てはまらない木瓜なので調査中です。
投稿: ニッサン宇田 | 2010年12月23日 (木) 12時06分
ニッサン宇田様
調べた結果を楽しみにしています。
因みに東京の荻窪にある中道寺を菩提寺にしている家は
豪族だった宇田川の直系と言われています(たとえ苗字は違っても)。
はるか昔には、関東平野に広大な土地を持っていたそうです。
投稿: オイラ | 2010年12月24日 (金) 10時37分
荻窪の宇田川氏が直系だということ初耳でした。貴重な情報ありがとうございます。
因みに、歴史の教科書に載っている蘭学者の津山の宇田川氏は足立区小台の出身で、さらにその先は品川区の北品川が元です。品川城の城主の子孫になります。
それが様々な経緯で津山藩に医師として仕えるようになったとのことです。因みに三つ柏紋です。
江戸川・葛飾区に多いのは、抱き柏紋
墨田区に多いのは、木瓜紋
神奈川県に多いのはは、沢潟紋(潟にはウ冠が付きます)、木瓜紋
品川区に多いのは、四ツ目結紋などです。
投稿: ニッサン宇田 | 2010年12月24日 (金) 11時36分
もともと、宇田川一族が1つだったのどうかはわかりませんね。
http://members3.jcom.home.ne.jp/4050387601/11Ogikubo.html
善福寺川の西側にある中道寺は、天正年間(16世紀末期)に日道が荻窪の地に草庵を営み、2世日法が中道寺と称え、寛永年間(17世紀前期)に檀徒宇田川茂右衛門が寄付した土地に、本堂などが建てられた。
とあり、ここのお寺にあるお墓の碑銘は大半が宇田川になっていました。この辺一体は豪族宇田川の領地だったと思われます。
家紋については、知識がありません。
投稿: オイラ | 2010年12月24日 (金) 17時21分
お久しぶりです。
調査の途中結果を報告します。
世田谷区は、沢潟紋
江戸川区・江東区・葛飾区は、柏紋
墨田区は、木瓜紋、沢潟紋、片喰紋
神奈川県は、木瓜紋、沢潟紋
品川区は、四ツ目結紋、葵紋
が多いという結果です。
まだまだ、途中なので、継続したいと考えています。
投稿: にっさん宇田 | 2011年4月25日 (月) 19時25分
初めまして。私も宇田川姓を名乗る者です。
私の出は新宿の下落合にあり,やはり同地に宇田川家が密集しております。
最近自分の家系に興味を抱き様々なサイトを閲覧しております。
しかしながら,品川,杉並,足立の宇田川家との繋がりが明確では無く,とても知りたい所でおります。
何方か情報がありましたら,お教え頂けますでしょうか。
突然の書き込みで申し訳ありませんが,宜しくお願いします。
投稿: 宇田川です | 2011年8月28日 (日) 10時47分
お元気でしたでしょうか。部分的ですが調査の結果が出ましたので、久しぶりに書き込みをさせて頂きました。私の推論も入っていますので、あらかじめご了承下さい。
1。渋谷世田谷方面は宇多源氏を名乗り戦国時代は世田谷城主吉良氏の家老を務め、木工頭の官職を代々名乗っていた。主な家紋は沢潟や木瓜(木工頭に因み)や桐(吉良氏から拝領)。由来の地である宇田川の土地名がある。
2。品川方面は上記と同じで宇多源氏を名乗り、戦国時代は扇谷上杉氏や北条氏に仕えていたもよう。但し、純粋な武士ではなく品川神社神主や物流業者などの側面もあったようです。宇田川和泉守長清が先祖と称している家が多いです。主な家紋は四つ目。
3。足立区方面は津山宇田川氏の書物の中に品川宇田川氏の子孫と記しています。主な家紋は三つ柏。
4。江戸川浦安方面は系図的には品川宇田川氏に繋がるようなのですが、扇谷上杉の子孫と称してその系図もあります。2つを本当と信じるなら上杉の子が宇田川氏に入り婿したのかと想像します。定氏という戦国末期に活躍した方を先祖と称する家が圧倒的です。主な家紋は抱き柏。
5。墨田方面は江戸初期に世田谷から移住してきたと推測されます。主な家紋は木瓜や桐。
6。埼玉県方面は扇谷上杉の子孫を名乗る家が多いようです。宇田川郷右衛門親定が先祖と称する家が多いようです。主な家紋は桐。
因みに江戸川の定氏は扇谷上杉刑部少輔朝昌の孫の図書頭親定の長男と品川の和泉守長清の孫の出雲守勝種の三男とも言われています。
残念ながら杉並の宇田川氏と他地域の宇田川氏との関係は不明です。せめて家紋が分かれば手がかりとなるのですが、、、。
改めて誤字や愚考がありますことをどうぞお許し下さい。
投稿: ニッサン宇田 | 2012年11月10日 (土) 11時53分
ニッサン宇田さま
綿密な情報ありがとうございます。
母方の祖母から、小学生の頃先祖は家老をしていたと
聞いた記憶があります。多分”1.”かもしれませんね。
大変薄いかもしれませんが、貴殿と血が繫がっているかも知れませんね。
投稿: オイラ | 2012年11月11日 (日) 14時05分