三遊亭円楽師匠逝去。落語研究会入部時代にタイムスリップしたのだ
オイラが中学生の時、知り合いの大学生に「早稲田祭」に連れてってもらい、そこで落語研究会の寄席を聴いたのが、この落語との本格的出会いだったと思う。世の中にこんなに面白い世界があるんだと感動した。
神宮外苑にある都立高校に進学したら、なんとそこにも落語研究会というクラブがあり、すぐ入部した。なんでも高校の世界では、2番目に出来た由緒正しいクラブだと聞いた。45年前後ぐらい前の話だが。(今はもう廃部になっているらしいが)
その時には、もう卒業していた先輩の柳家小三治(現名)さんが、クラブの時間になるとよく遊びに来てくれた。もちろんまだ前座だったが。それでも何かと世話を焼いてくれて、落語名人会などのチケットを調達してくれ、NHKホールや、劇場での落語会によく出かけたものだった。
文化祭が近くなると、高田の馬場にあった彼の自宅に連れていかれ、部員全員ご指導を受けた。そのころ彼と一緒に前座仲間だったのが、逝去した三遊亭円楽だった。(合掌)
<訃報>三遊亭円楽さん76歳=落語家、「笑点」の元司会者10月30日
テレビの人気番組「笑点」の司会者を長く務めた落語家の三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名・吉河寛海=よしかわ・ひろうみ)さんが29日午前8時15分、肺がんのため東京都中野区内の自宅で死去した。76歳。
1955年、六代目三遊亭円生に入門して全生を名乗った。62年、真打ちに昇進し、五代目円楽を襲名。同世代の立川談志さん、古今亭志ん朝(2001年死去)、月の家円鏡(現・橘家円蔵)さんと共に「四天王」と呼ばれた。
78年、落語協会の真打ち昇進制度をめぐり、当時会長の五代目柳家小さん(02年死去)ら執行部と、前会長の円生らが対立。この「落語協会分裂騒動」の際、円楽さんは師匠の円生と共に協会を脱退したため、寄席に出演できなくなった。
円生が79年に亡くなったあとも、円楽さんの一門は落語協会に戻らなかった。85年には私財を投じて東京都江東区に寄席「若竹」を開設。だが、この寄席は89年に閉館した。一方、82年に急逝した三波伸介の後任司会者として83年に「笑点」に復帰。体調を崩して人工透析を受けていたが、06年5月まで務めた。
落語では、先ず基本は発声練習だった。聴くひと達が普通の音量でくまなく聴けるように話さなくてはならない。例えば教室の奥で聴ける程度の声量ではダメで、その教室に観客が満員になったとき、その最後列の人にも聞こえるようにしなくはならない。人の体が音を奪ってしまうので、ガランドウの教室の時と比べて数倍の声量にしなくはならない。
また、話の途中の「間」の取り方。お客が理解して笑う時間を与えること。
慌てて話さず、明瞭に観客に話が伝わる話方。普通に話してドットお客が笑うようにしなくてはならない。いくら自分が可笑しいと思っても、ゲラゲラ自分が笑いながら話しても、大抵その可笑しさは伝わらないことが多い。
長時間正座でいられること。大抵十数分で足が痺れて立てなくなる。
本題に入る前の「枕」話(プロローグ)、また「くすぐり」の自己流を開発する。先輩の柳家小三治師匠は、この「枕」話で延々1時間という猛者の時もあって、本題がほとんど無かったという都市伝説もある。
また話の最後(シメ)が、「サゲ」または「落ち」といわれるもので、にわか落ち、ひょうし落ち、逆さ落ち、考え落ち、まわり落ち、見立て落ち、まぬけ落ち、とたん落ち、ぶっつけ落ち、しぐさ落ちなどがある。いわば一番重要なエピローグだ。考え落ちの中には雪隠落ちなんてエのもあって、寄席を出て、家に帰り、茶をすすり、便所(雪隠)に行き、しゃがんでいるとき、その「落ち」が分かって大笑いしてしまうという、まさに話芸の究極なのだ。
その頃の名人といわれた師匠は、三遊亭円生(六代目)、桂文楽(八代目)、柳家小さん(五代目)、三遊亭金馬(三代目)等々、壮そうたるものだった。
オイラ、始めの頃は、金馬の「三人旅」を学習して文化祭の初高座に挑んだ。通学の行き帰り、夜、屋根の上で猫のように、布団の中で、こつこつと話を繰り返し覚えたものだ。
次に高座で挑んだのは、小さんの「千早振る」。「センセイと云われるほどの馬鹿じゃなし・・・・・」で始まるやつ。
そして最後は調子に乗って、大変難しい円生の「お七」だ。約40分の話。どちらかというと人情話。ほとんど笑いは取れなく、正座の練習もなっていなく、話の最後の頃、足を触ったら一切感触なし。当然のごとく、話が終わると立てなくて、イザリながら舞台の袖へ。これでドット笑いを取ったのだが・・・・・・。
因みに、オイラの高座名は「訴婦家老恋」⇒ソフヤロウレン⇒ソフィア・ローレンだったのだ。
その他の話もイロイロ獲得した。「湯屋番」「くやみ」「日和違い」「らくだ」「道具屋」「死神」「野ざらし」「天失気」また艶笑系では「蛙茶番」「五人回し」なんてのを学習した。だから江戸・明治時代の遊び、遊郭なんてエのも、造詣が深い、オイラなのだ。
だんだん、落語に深く嵌っていった高校時代だった。当初は三遊亭円生のファンだったのだが、部員仲間の一人が、桂文楽の素晴らしさを教えてくれ、今でも最高の落語家だと思っている。最近同窓会で彼と再会した。今新潟県内の病院で院長をしているとのこと。相変わらず落語に嵌っていて、入院患者に時々聴かせるらしい。顔もだんだん似てきたような。
劇場の高座で、文楽がスポットライトを浴びると、色白の肌がピンク色に染まり、格調高い話をしてくれた。オハコの「船徳」で冒頭「四万六千日でございます」の台詞で、会場はあの江戸の、暑い、熱い夏の情景を感受してしまう。どんどん話に引き込まれていった。
ただ大学以降、だんだん落語よりもっと忙しいものに嵌っていって、古典落語をじっくり聴く場面も少なくなっていった。ただ縁があるのかアルバイトで、柳亭痴楽の家にルームクーラの取り付けにいって、痴楽の唄を聴かされ、若いおカミさんに寸志を頂いたこともあったが。
この円楽司会の「笑点」も最初の頃は楽しみに観ていたが、だんだん遠ざかっていった。笑点の司会者としては、三波伸介・立川談志の方が、はちゃめちゃで面白かった。円楽は真面目過ぎた印象だった。
とにかく、落語話の種類は今残っているものだけでもまことに多い。おそらく数百はあるだろう。落語家と演目のファイル またこの中の一つの話を繰り返して聴いても楽しいし、他の落語家による同じ話を色々聴き比べしても楽しい。まさにスタンダード・ジャズ・ボーカルの世界と同じようなものだ。
今の若者に少ないのは、このような形而上の世界で楽しむ遊びだと思う。聴きながら想像力を働かさせるというやつ。また実際人前でやってみることで、スピーチのいい訓練になる。だからおかげで、オイラ数百人を前にしてもスピーチであがることはほとんどない。昔多く講演なぞもしたが、結構うまくこなせた。演奏やダンスに凝るのもいいかもしれないが、落語に凝ると、将来きっと役に立つ場面が何度も来ると思うと進言する。
円楽の最後の高座は07年2月、東京・国立演芸場で出し物は「芝浜」だったとか。貧乏長屋の夫が浜で大金の入った財布を拾うことから始まる展開の話だ。どちらかというと人情話の類になる。
円楽師匠の「芝浜」は無かったので、談志の「芝浜」でこの演目をお時間のある方は観てください。
こちらもお楽しみに! youtubeでの「落語」検索 1780件
おあとが、よろしいようで!
一粒で二度おいしいオイラのブログ: 今日の動画
後期の、桂文楽・「明烏(アケガラス)」を見つけた。
童貞の若旦那を、回りが世話を焼いて、
遊郭で無理やり初体験をさせるという艶話だ。
はたしてどうなるか。
文楽 明鳥1
文楽 明鳥2
文楽 明鳥3
八代目桂文楽は、こうして、自分の定年とした。
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