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2009年4月25日 (土)

裏側から見たキリスト教・イスラム教。塩野七生の世界。

今日は全国的に雨降りの土曜日。こんな時は、しっとりとした文(フミ)を読みたくなるものだ。印刷文=書物=本だが、 ネット文、ウェブログ文これらを一言で表す語が無いような気がする。またこれら全体を表す語も。やはり「活字」または「文(フミ)」ということか。電脳本ってのもなんかね。

このごろ、本を読まなくなった。新聞は断ったし、単行本もお金を出してまで読む気がしない。アマゾンで簡単にネット購入できる時代になったのに。昔は、毎月「新潮45」「VOICE」「正論」「諸君!」「WILL」を本屋で購入していた。しかしネットでの秀作ブログを読むのに忙しくなり、物理的時間の問題で最近は「WILL」と「諸君!」を年間契約で宅配してもらって読んでいる。しかしその「諸君!」も5月1日発売の6月号で休刊とのこと。淋しい限りだ。

オイラの文章の語り口は、この「諸君!」の毎回最初のページ、”紳士と淑女”のコラムのスタイルをヒントとしている。モヤモヤしたときこのコラムを読むとスッキリしたものだ。なんというか、朝日・毎日・NHK等反日マスコミの天敵のような希少価値があった。

オイラ仕事上、PCの前に座ってモニター画面とにらめっこする時間が長い。それで汎用性のあるブログの文章を読むことが多くなる。本はトイレに長くいるとき「従軍」させる。そこで面白い記事に出会うと、「終戦」してからデスクで読み続ける。

女流作家で、オイラが尊敬し、好きなのは、曽野綾子・桜井良子・上坂冬子(合掌)・塩野七生ら女史たちだ。下手な男供に負けない思想と説得力がある。男性タジタジ。

今、WILL6月号の「ローマ史から読む世界の今」を読み終えた。塩野七生(しおの・ななみ)と聞き手、堤 尭(つつみ・ぎょう)の対談だ。いわば塩野流の、世界の宗教を裏から眺めた世界観に「なるほど!」と共感した。抜粋を一部引用してみる。

一神教と多神教

塩野:

(古代ローマに於いて)一神教と多神教の違いは、神の数の違いではない。ひとりひとりは自分の神を信仰している。しかし他の人が別の神を信仰しているのを「いいわよ」というのが多神教。一神教の世界は「この神しかいないから、みんなこの神を信じなければいけない」というものです。

古代は多神教の世界だったのです。ペルシャのゾロアスターも神は1人ですが、「他の神はいけない」とは言っていない。ユダヤも「自分たちは選ばれた民だ。自分たちはこの神を信じる」と言っているだけで、他の人間が何を新興しても「別に」ってわけ。だからユダヤ人は布教には熱心ではなかった。布教というのは、知られざる神をしらなきゃいけませんと強制するわけですからね。

・・それは征服した民の神々も受け入れて、その神々にも市民権を与えたからですよ。・・・

「日本に宗教がない」は嘘

塩野:

日本の多神教は八百万(やおよろず)だから神の数ならばもっともっと多いじゃないか、という話になりますが、日本の場合には自分たちの中で増殖していって「八百万」になっちゃったわけ。他の民を征服して、その人々の神を合わせてこの数になったのではない。

だから日本の多神教とローマの多神教は、性質が違います。他者の大切にしていることを受容するという態度では、反対としてもよいくらいに。それがもしかしたら、日本が朝鮮を植民地にした時の態度に表れていたのかもしれない。

自己反省がないイスラム

塩野:

この種の自己反省をキリスト教世界は二度やっている。つまり十五世紀のルネサンスと、十八世紀の啓蒙主義と。一方のイスラム世界は、それを一度も経験していないんですよ。自己反省することになれていない人間は、何か都合が悪いことが起こると、他人に責任転嫁する。今のイスラムの問題はそれです。・・・・・・・

イスラムはこの種の自己反省を経験していません。この違いは大きい。大躍進したかったら、その前に自分のこれまでのやってきたことが良いことだったかどうか、何が間違ってはいなかったかどうか、と考える必要がある。自己反省のないところに、躍進はありません。・・・・・・・・自己反省というと中学生みたいだけれど、ルネッサンスとは、自分たちの文明に対する疑いから始まったんですよ。

塩野:

コーランでは、異教徒を殲滅するように書いてある。でも、あれを言った時期のマホメットは、敵に囲まれていたわけで、コーランとは、アラビア半島を征服する過程でのイスラムの考えを主張した経典なんですよ。

ところがシリアを征服し、中近東を征服し、オリエント全域の大帝国になった後もイスラムは変わらなかったんですね。

神を象ってはいけない理由

堤:

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ神を崇めている。ヤハウェ、エホバ、アッラー、呼び名は違うが、同じ神だ。始祖はアブラハムという男だ。そのアブラハムが信じた「神」を三大宗教は崇めている。ところがその神は、見えないものであり、何か象(かたど)ってはいけない、見てもいけない、みだりに名前を語ってもいけない。

・・・三つとも見えないものを信じている。これには政治的な意味合いがあって、要するに神と人間の間は司祭というか坊主を介在させて、この司祭が「神の代理人」として神意を伝える。この司祭を味方につければ、政治は神意を騙(かた)った司祭を介在して、支配の正統性を得るというシカケになっているわけ。

塩野さんに聞きたいのは、なぜ「見ちゃいけない、名を言ってもいけない、象ってもいけない」なのか。それまではアテナイの女神だとかみんな像があったのに、ぶっ壊してしまったのでしょう。なんで姿形のないのが、一番大きくなったのか。そしていまだにいがみ合っているのか。見えないからいがみ合うんじゃないのかと。

塩野:

古代は多神教で、象ってよかった。だから、それとの違いを明らかにしたかったこともあったのでしょう。エジプトから逃げてきたモーゼが言ったことを思い出してみて。あそこで「あんたたちも神を象っていいよ」と言ったら、エジプトとの違いを際立たせることができないじゃないですか。それに、新しく象った宗教では違いを際立たせる必要がある。

一神教的な宗教が支配的になったのは、中世です。結局のところ、それが今に至るまで続いているわけです。

(堤:日本は戦時中一神教の世界だった。天皇を現人神として擬制し、内に忠誠心を調達し、外に対して対抗したんです。そうでなければ国を束ねられなかった。・・に対して)

塩野:

確かに私たちは幼い頃、天皇のご真影なるものに頭を下げた。一方ではお葬式に行けば仏教だし、私たちにとってはフィクションにしても非常に無理したものになっていたように思います。

堤:

作ったやつも、伊藤博文以下みんな分かっていたと思う。Aの民族がAの神を押し立てて攻め込んできたときに、Bの民族はBの神を押し立てて押し返すしかないんだ。

聖人聖者による支援網

塩野:

ミラノ産まれの聖人、アンプロシウス。彼はキリスト教会をシステム化して、イエスだけでは信者全員の願いをフォローできないと、聖人聖者による支援網を確立したんです。なにしろ、イエスは神の子であると同時に神なんです。三位一体とはそのことですからね。

ここでイスラムと分かれる。イスラム教はイエス・キリストを「預言者」としては認める。しかし、神とは認めない。マホメットは彼らにとっては預言者ではあっても、神ではないんですから。だからキリスト教を神として認めれば、マホメットはイエスより格下になってしまう。

ここで問題が生まれたのよ。・・・・・あまりに多くの人から頼まれすぎる人は、心配りの度合いが少なくなるから、御利益も少なくなるかも知れないと考える。

堤:

誰もを愛する人は、誰も愛さないと。

塩野:

そう。・・・・・・・・これでは駄目だというわけで、聖人たちによる支援システムを作ったんですね。十二使途から始まって、聖書を書いた四人。殉教した人々からなにまで加えたというわけね。・・・全ての聖人たちに担当部門が決まっている。・・・・・・・

・・・・ところが聖人が増えすぎちゃった。当たり前ですよね。人間の願望ごとに担当させられたんだから。でも、一年は365日でしょ。聖人の祝日はこれでは入りきれない。だから十一月一日は「万聖節」。つまり365日に入れなかった聖人たちをひっくるめて祝う日にしたのです。

カトリックはキリスト教の中でどこに特徴があるかというと、多神教に最も近づいたころ。かつては神々が担当していたことが、聖人たちの担当になっただけですから。だからカトリック教会が長く続いているのは、人間の心情を直視して、それに対処するように作ったからなんです。

ルターとマキャベリの違い

前半省略

塩野:

うーん、たとえば離婚というのは社会法、国家法では認められているけれど、カトリックでは認められていないんです。しかし、我々人間は喧嘩するじゃない。カッとしたあげく離婚しようと言っちゃう。で、なにやら両方生活力があると意外にも簡単で、さっさと離婚できる。でもここに、離婚は神の前で結婚を誓ったから許さないという法があったら?そしたら離婚に行くまでに、もう一度考えるようになりませんか。

人間の本心に忠実であることは、それほど幸せなことだろうか。離婚を許されないとなると、しようがないから翌日考えて、あの人にはいいところもあると、考え直すかもしれない。人間って本当に理だけで自分が納得・・・よく自分が納得すればって言うけれど。私はそういう人間の理性に万全の信頼を寄せられないんですけどね。

自分に正直であるだけでいいものだろうか。多くの人はただ単に、離婚まで行かないのは生活力がないから我慢しているだけだろうか。それがわからない。だから、もしも絶対の神の前で離婚は駄目と言われたら、改めて努力してみるかもしれないのでは?

歴史を書くとは

塩野:

プロテスタントは人間は強いもの、理性の動物と思っている。反対にカトリックのほうは、人間は弱くてだらしない存在としている。

堤:

塩野さん、これは愚問だけど、ご自分が悪人だと思う?悪人とは定義が難しいけど。歴史は悪人しか書けない。なぜなら歴史を作るのは悪人だけ。

塩野:

うーん。人間って、100%の悪人はいないけれど、100%の善人もいない。だから、私の中にも幾分かある悪人的要素と善人的要素が悪人を書くときは出てきて、善人を書くときも出てくる。そういう風にしたほうがいいんじゃない?自由なスタンスをもつために、自分の立場をはっきりきめない。

塩野:

カエサルの言葉だけど、「どんなに悪い結果に終わったことでも、そもそもの動機は善意だった」。よくヒトラーを悪く言って、精神病的悪にするけど、よくよく考えれば、ヒトラーは国民に選挙で選ばれた人ですよ。だから、彼の考えがいつごろ、どの方向に向かったかのほうを調べるべき。これが重要なんですよ。

堤:

ドイツはベルサイユ条約であらゆる制約をかけられ、途方もない賠償金を課せられてヒイヒイ言っていた。だからヒトラーが出てきて、生活はアップしたから、拍手喝采だった。マキャベリも言っていますね。「善意に発して悪をなす人間がいる」。

塩野:

そうかと思えば、自分の利益が動機でも、結果がよくなることもある。

堤:

私から発して公の利益になる。逆に公の利益を言い立てて悪を結果するやつもいる。

塩野:

歴史を書くということは、その辺りの推移を書かないと、書いたことにはならないと思いますね。

                  <終わり>

なるほど、目から鱗が・・・だね。これ昨日届いたばかりのWILL6月号の最後の章です。定価780円です。詳しくは買って読んでください。

お釈迦様発の仏教も同じように、様々な菩薩を取り入れたのも似ているのかもしれない。お釈迦様だけじゃ忙しくてたまらない。宗教の世界って、なんでもありの世界だが、一本ロジカルな線は保っておかないと、矛盾噴出で分からなくなっちゃうからね。

釈迦仏教で、釈迦の言葉に「人間死んだら、あの世があると思ってもいけないし、無いと思ってもいけない」というのがある。つまり自分の死んだ後、どうなるかなんて考えてはいけないということらしい。まあそれがいつの間にか日本では葬式仏教になってしまったのだが。そこに至るまで、いろいろあったのだろう。想像できそう。

それにしても、イスラム教って恐ろしいほど凄いね。宗教的に自爆テロを厭わないのだから(もちろん宗派によって違うが)。これから宗教間の対立って静まるどころか、ますます激しくなっていくような気がする。

そんな中で一部を除いて、日本人は多神教というか、これは無宗教に属するように思える。北米でもこの無宗教的な人々も増えてるらしい。どうだろうか、日本発で無宗教という宗教を広めるというのは。活動は簡単。「私は無宗教です」と堂々と言うだけ。これを世界で第三の勢力とする。ああー、やっぱり宗教戦争に巻き込まれるか。難しいね。

哲学者ヘーゲルの言葉に「現実には、正義と邪悪との対立などはない。あるのは常に正義と正義の対立なのだ。だから人間は永遠に悲劇を繰り返す」というのがあるが。

人間社会である以上これは永遠に続くことを踏まえた上で、過去にあった大きな悲劇にならないよう世界が努めることしかないね。

一粒で二度美味しいオイラのブログ:    今日の画像

メッカ巡礼のためサウジアラビアに集まったテント群。300万人分。

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男の子はまだイスラム教のビギナー。

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礼拝は男と女は分かれる。

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出入国管理官:・・・・・これじゃ、ワカリマセーン。

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犠牲になったイラクの子供を抱える米軍兵士。きっと仲が良かったのだろう。

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コメント

そうですね。
日本の場合、親が「離婚はいけない!」というしかないですね。だけど威厳がないから通じない場合もある。
でも多少でも、うるさい親の力ってあると思う。
離婚しようと思った時、親を気兼ねしますからね。
馬鹿にされる親、親をバカにする、または親がいない、当人同士の場合は離婚し易い。

一時マスコミで流行った離婚奨励の傾向は良くなかったと思う。今もその傾向はありますが。

確かにプロテスタント系は個人主義が多く、離婚も多い。カソリック系は家族主義が多く、離婚は少ないような気がします。

男女、飛躍的に豊かになると、離婚は多くなる。
極端に貧しい時代には離婚は少なかった。

欧米発の離婚率の高さは、日本にも伝染したのでは。
それとも、日本が豊かになった証なのか。

「つみきのいえ」っていい短編映画でした。


投稿: ヨシリン | 2009年4月27日 (月) 10時49分

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