お葬式について考える
1984年公開の伊丹十三監督作品「お葬式」は、従来からなんとなくタブーだった葬儀を題材にした秀作だった。場所の設定が実際の伊丹の別荘(神奈川県湯河原町)だったりしてオイラにも身近だった。笠智衆(りゅう・ちしゅう)扮する寺の住職が、ロールス・ロイスの自家用車でお経に来たり、笑ってしまった。実際に高級ベンツ等を乗り回している坊さんはウヨウヨいるので、あながち嘘ではない。
3日の日にオイラのカミサンの母親が危篤との連絡が入り、彼女は急遽駆けつけたが、4日昼前に母親は他界した。3人の子供に看取られての最期だった(享年87歳)。最大に幸せな他界だったと思う。10日の昨日渋谷区にある斎場で、身内だけでお葬式を済ませた。
オイラのオヤジは6年前他界し、地元でお葬式を出した。オイラが喪主兼施主だ。死期が迫っていたことは分かっていたが、結局その時にならないと具体的には動けないものだ。死亡の当日めぼしを付けておいた葬儀屋と菩提寺に連絡をした。自宅葬が前提で、葬儀屋の見積書を見ながら、あれこれ調整して決定した。建築の見積書を見慣れているオイラとしてはこれは難なく通過した、そして寺(浄土宗)に行った。
一番の難関は、戒名料の納得だ。誰でもそうだろうが、意味のあるものには納得するが、意味のわからないものを納得して支払うことは難しい。戒名の最後の2文字が信士なら、40万~50万。居士だと60万から80万。院・大居士で・・・・・・・。結局祖父と同じランクの戒名にならざるを得なく、金額に不満のなかで決着が付いた。オイラの寺はそれでも安いほうだと。
オイラのポン友カン坊の母親の時は、菩提寺から、まず300万円持って来いって云われたとか。その時すぐの手持ちがなく、義兄に用立ててもらったとか。オイラがひどい話じゃないかというと、結局母親の葬式を人質に取られてしまっているのでどうしようもない。はたまた亡き父親や先祖、墓まで人質だとあきらめ顔で云っていた。亡き父親の時は景気もよく、母親が気張って出した金額が前例になったようだ。またこれで、自分の時はこの金額が前例となり、息子が気張らなくてはならない。永遠に続いていくことだろう。
またポン友キー坊の場合、菩提寺が地元名物ヨタ坊主のところで、ヤーサンベンツとスタイルを合わせた車をお持ちとか。戒名100万円の言値でなく、それ以下にしてもらったら、葬儀のお経の後、その坊主、参列者に聞こえるように、「死んだ親は立派なお布施を出したのに、この度はたった100万の金も払えない。親は一生懸命育てたのに、この有様はまさに親不孝だ」とかなんとか云ったとか。(バカこくのもいい加減にしろ。エロヨタ坊主よ。)
オイラは別に宗教を信じている訳ではない。たまたま先祖がそうだったように、菩提寺があって慣習(風習?)として関係しているだけだ。特に現代になって様々忙しい世の中になると、冠婚葬祭が唯一だった昔とは違ってくる。費やすお金の価値も違ってくる。だからこそ「戒名料ってなんなのさ」ってことになる。まあ寺の方は金を集める手段としてこの戒名料ってのがまとまって徴収できるので重宝なのだろう。ミーチャンハーチャン的に言わして貰えば、お寺のビジネスモデルなのだ。
この戒名についてなるべく客観的な見解を探ってみる。どうしても各宗派のHPや葬儀屋のHPからではビジネストーク・ポジショントークになり勝ちなので。
そもそも戒名(法名・法号)とは、仏教において仏門に入った証し、戒律を守るしるしとして与えられる名前だそうだ。出家修道者に対して、授戒の師僧によって与えられるものだったとか。その後どういう訳からか、死後に浄土で出家して最終的には仏となる浄土思想に基づき、死者に戒名を与える風習が生まれたとのこと。死後の戒名は、特に日本において盛んに行われていて、高額な戒名料を取られるのも日本だけとか。
仏教の起源、釈迦は弟子に質問をされた。「人は死後どのようになるのでしょうか、あの世というのはあるのでしょうか?」それに答えて「あの世があると思ってもいけないし、無いと思ってもいけない。」と答えたそうだ。つまり「死後のことなぞ考えるな」ということらしい。また当時あったバラモン教に相対して、「まして人の死後についてお金を取るなぞとは、もっての他だ」と戒めたそうだ。それが2千年数百年、中国・朝鮮とたどって日本に来て、今は死者にかこつけて大金を取る宗教(風習?)葬式仏教に変わってしまった。
まあ宗教というのは、何でもありの理屈がついて回るので、反論する人も多大であること覚悟して云うのだが。ただオイラはこの見解を正しいと思っている。多分死ぬまでそう思っている。
絶滅したネアンデルタール人の骨のそばに花束と思われる遺物もあったそうだ。ツタンカーメンの棺桶には妻からの花束があったそうだ。いとしい人を弔うことは既成からある宗教に委ねる方法だけでなく、無宗教的に弔いだけの慣習(風習)が根付いていくことが望ましい。
オイラも内の愚妻(愚かなる夫の妻)も戒名は信条的に必要ないと思っている。本名があるのだからそれだけで十分だ。だが、それを通す為には菩提寺と縁切りをしなくてはならないらしい。墓は旧村が造成した墓地なので寺の境内にはないのだが、寺の言い分は寺が貸しているとのこと。縁切りとはその墓地の立ち退きを意味するらしい。今度、商売柄徹底的にオイラの墓地の出目を調べてみようかと思っている。
お墓を無宗教的にしてもらって、本名で名前を入れてもらって、オイラの命日と正月とあと節目節目に掃除とお花を生けてもらって、あと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。それだけでいい。
中国の蘇州の孔さん(孔子の直系子孫-180万人ぐらいいるとか)に聞いたら、あちらではお墓は夫婦で入るそうで、夫婦でない人は一人で入るそうだ(親の墓には入れない)。日本風の先祖代々家族のお墓ってのはないそうだ。
一粒で二度美味しいオイラのブログ: 今日の画像
どこの国の、どこの地方のお墓なのだろう。土葬だね。良く見ると生前の写真が組み込まれていて、その人物の紹介文が記載されている。いつまでも自分の存在を覚えていてほしい。なるべく長く。無宗教でこんなのだったらオイラの時にはこうしてほしい。ちょっと恥ずかしいかな。オイラのポン友の石材店の社長。その節は宜しくお願いしまーす。
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コメント
葬儀に付き物の香典というのも考えものだね。葬儀屋のHPにその相場が一覧表で出ているが、みな高めに設定されている。業者側から見れば、その金は回りまわって自分の方にくるわけだから、高くしておいたほうがいいわけだ。
まあ日本では互助ということなのか。私も一般の葬儀の通知が来ると、過去にその関係筋から自分関係で香典をもらったことがあるか、あった場合いくらだったか。ない場合はこれから先どのくらい価値があるのか調べた上で行動を取るようにしている。通夜・葬儀は香典届けに行くような情けないものとなっている。歳を取るほどそのパターンが多くなる。香典・供物受領拒否の場合はホッとする。これもお返しが将来に渡って大変だからであろう。
投稿: dankai | 2008年5月11日 (日) 20時40分
僕は、葬儀・通夜はしないと決めています。遺体は、できれば海に沈めてほしい。かなわなければ散骨ですね。LEE
投稿: LEE | 2008年5月13日 (火) 12時15分
LEEsan
それができればいいですね。だけど遺言しても回りがそうさせないと思いますよ。
曽野 綾子がエッセイで自分の父親の時、父親の意思をついで通夜・葬儀をしなかったら、後日1年間ぐらい続々自宅に関係者が弔問に訪れ、こんなことならやはりまとめて葬式をしておけばよかったと後悔したとのこと。
あとに残された人のために通夜・葬儀をするのかもしれません。どんな形式でやるのかは別にして。辛いところです。
投稿: kankan | 2008年5月15日 (木) 11時15分
kankanさん
そうですね、遺志を伝えるしかありませんね。LEE
投稿: LEE | 2008年5月17日 (土) 08時04分
葬儀について全人間共通項は、「その人が死んだことの確認」のような気がするのです。
しっかり死に顔を確認して、もうその人はこの世にいないことを認識することだと思います。
ある人は悲しみ、ある人は腹のなかで喜び。ある人は無心に。
投稿: フンフン | 2008年5月17日 (土) 09時40分
すごくいいアドバイスで感心しました。これからも楽しみにしています。
投稿: はっち | 2008年5月30日 (金) 20時57分
この写真良く見ると下(埋葬してある部分)が花壇になっているみたい。こりゃいいね。四季おりおりの草花が茂っているなんてすばらしい。誰か墓石屋さんモデルを一発造ってください。個人墓だね。
投稿: わいわい | 2008年5月31日 (土) 14時47分